能登半島地震 ─ 寄付・支援情報

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2012年2月28日火曜日

NHK大河ドラマ「平清盛」第8回「宋銭と内大臣」


視聴率、苦戦しているようだ。そのことについて今日は真面目に考えたい。
最初にこの回を見たとき、つい途中で眠くなってしまい、うつらうつらしてしまったので、もう1度見ることにした。2度目に見ると1度目よりも面白い。話の内容も既に見ているので解りやすい。実は以前にも2回見たら1回目より面白かったことがあった。なぜだろうと考えてみた。
なんとなく思うところがあったので、もう一度見てみたそれで気付いた。この平清盛、一場面一場面が異様に短いのだ。殆どの場面は1分未満から1分ほど。一場面で話が盛り上がる前に、ぶつっと切れて次の場面になってしまう。数えてみたら、なんとこの1話で28場面もあった。一場面で3分以上のものが2つしかない。一つは、上皇の菊の宴で344秒。もう一つは藤原頼長(山本)が清盛を呼び出した場面で748秒。それ以外は全てほぼ1分前後だ。短い場面など20秒しかない。これでなぜ2度目が1度目よりも面白いのかがわかった。場面の切り替わりが早過ぎて、1度見るだけだと何が起こっているのか非常にわかりずらいのだ。
低視聴率の理由も、これではないだろうかと思い始めた。というのもこのドラマ、どうもつかみどころがない気がしていたのだ。もう8回目だし、そろそろ人物のリアルな人となりもわかってきそうなものだが、どうもはっきりしない。性格描写が足りない気がする。それぞれの人物がまだよく解らない。上皇(三上)もたまこさま(檀)も、得子さん(松雪)も、義清(藤木)も何を考えているのかわからない。得子さんはどうしてあんなにいつも怒っているのだろう。たまこさんはどうしてあんなに空気なのか。平家もそう。忠正叔父さん(豊原)は、なぜそこまで清盛を嫌うのか、理屈はわかっても感情の根拠が無い。要は魅力的な人物、または「理解できる」人物が少ないのだ。
一人ひとりの演技をじっくり見てみると、みんないい表情をしている。優しい家貞(梅雀)なんて特に魅力的だ。なのに好きになれるほど印象的な場面の記憶がない。もしかしたら脚本上、一つの場面が短すぎて人物描写まで出来ないのではないだろうか12分で変わり続ける場面を追いかけていくのがやっとで、ストーリーや人物描写、演技を楽しんでいる暇が無い。非常に忙しい。結果、毎回なにが起こっているのかさえわかりずらい。確かに今回、頼長と清盛の場面は長かった。しかし、あの場面もそれほど緊張感のある見せ場には見えなかった。なぜだろう。それは唐突だからだ

過去の大河『龍馬伝』を思い出してみる(これも視聴率は低かったらしいが、話としてよく出来ていると思うので、比較するため例とした)。家族と龍馬、老いた父親が浜辺で話す場面。武市半平太と奥さんの最後の晩餐。山内容堂が武市を牢屋に訪ねる場面。後藤象二郎と龍馬の清風亭の対決。これら、私にとって思い出深い場面は全部一場面が長かった。話の構成も、前の場面を積み重ねながら次第にこれらの場面につなげていく描き方だったと思う。
早速録画していた『龍馬伝』を見直してみた。やはり1話の中に35分の場面が5回ほどある。1から3分程のいくつかの場面が繋がって一場面と考えられるものもあり、ひとつの流れとして話が20分も続くものがある「第29回・新天地長崎」。「第40回・清風亭の対決」の場面など14分も続いた。対決場面に至る前に5分の場面が2回あって話を盛り上げている。話が解りやすい。

単純に場面の数を比べてみよう。『龍馬伝』
29回 1話 19場面(丸山町を全20分の一場面とすれば8場面
40回 1話 13場面
それに比べて『平清盛』
8回 1話 28場面 かなり違う。

録画を残しているので、過去の『平清盛』も見直してみた。印象に残った第4回「殿上の闇討ち」では23分の場面もいくつかあって、もう少し落ち着いて見れた。今回の回が特に落ち着きが無かったのかもしれないが、『龍馬伝』と比べると違いははっきりしている。

ともかく、視聴率は苦戦している。いままで、理由も無く好き嫌いだけで批判をするのはやめようと思っていたが、ここにきて、私の個人的な意見をまとめてみようと思った。問題点のリストだ。今回の第8回を主に対象にしている。
1.編集
面場面の切り替わりが早過ぎる。このままではキャラクター全員のつかみどころが無いまま回数を重ねてしまう。人は人に惹かれてドラマを見る。もう少し、腰を落ち着け、人物描写をしっかりするような編集であってもいいのではないか。
2.脚本
編集とどちらが先なのかわからないが、問題は同様だ。一場面が短すぎて、登場人物の描写が満足に行われる前に次の場面に移ってしまう。これでは、どの人物に心を寄せればいいのかわからない。
3.コーンスターチ
リアルだからいいのだと思っていた。しかし今回8回目。だんだんうるさくなってきた。今回の1場面、弟家盛(大東)が女性と会う竹林の小道。竹を通した日の光がさわやかで、初々しい若者の逢瀬の場面として綺麗に仕上げることもできただろうに、家盛の顔のまわりを漂う白い煙。やっぱりおかしいと思う。やりすぎだ。市場にも庭にも室内にも白い煙が見える。せめて場面を選んで適宜必要な効果としてやってほしい。このせいで、人物の顔が見えないことが多い。
4.カメラ=光の処理
光の加減も変だと思う。白が異様に強すぎる。室内から撮った映像は軒下と柱の向こうに見える庭と空が、真っ白でまぶしくてしょうがない。床に反射した光もまぶしい。屋外の映像は空の白が強すぎて、人物の顔が見えない。白が際限なく広がって人物を消している。これはコーンスターチのせいだけではない。『龍馬伝』でも空が白くてまぶしい場面はあったが、これほどではなかった。カメラの感度の設定がおかしいのではないか。
5.音楽
今回どうも無駄に曲が流れた。崇徳天皇(井浦)と義清の場面のピアノ。清盛邸での宴会の後、夜の場面でのピアノ。最後の清盛邸で、明子懐妊の知らせの場面のあたりも、かなりうるさいオーケストラの曲が流れていた。唐突なのだ。必要が無い。場面にマッチしていない。特に今回はどうしたものかと思った。(音楽に関しては今回のみ気になりました。以前に気になったことはないです。タルカスも「遊びをせむとや…」の歌も素晴らしいと思う
こんなところかな。視聴率が苦戦している折、一視聴者としてなぜなのか感じるまま書き連ねてみた。衣装やセットは綺麗でいいと思うし、俳優さん達もかんばっていると思う。ただ忙しい編集と多すぎる場面の切り替わり、映像の妙な光の加減で良さが消されてしまっている。もったいないと思う


2012年2月27日月曜日

第84回 アカデミー賞授賞式



アカデミー賞授賞式を見た。

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作品賞ならびに5部門で受賞した『アーティスト』。日本ではまだ公開されていないらしい。このエントリーは(ネタバレはしていないと思うのですが)私の個人的な印象、及び感想を書いているので、気分を害される方がいるかもしれません。人の意見に左右されず純粋にこの映画を楽しみたいと思う方は読まないでください。
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まず、文句から。
作品賞、監督賞受賞の『アーティスト』。これはなかろう。うーん。でも分からないでもない。このアカデミー賞、ハリウッドの映画業界人クラブの内輪受けの賞だもの。この映画、フランス人が作った大昔のハリウッドに対する憧れオマージュ(尊敬と賛辞)映画。ハリウッドの映画人たちもこれぐらい(ハリウッドの過去の栄光を)正面切ってほめられたら、そりゃあうれしくないわけがない。でもハリウッド自らは、こんなにあからさまな昔のコピー映画は作れないと思う。そんなの思いつく人さえいないと思う。だってちょっと恥ずかしいもの。でもね、あのスノッブなフランス人が作ってくれたら、こりゃうれしいうれしい大絶賛ですよ…という結果だと思う。もうハリウッドはだめかもしれん。
映画自体は、よくまとまってるし、(賞をとった)俳優も、いかにも往年のハリウッドスターみたいで上手いし、ほんとにそれらしく出来ているんだけど、だけど…。本物の白黒のハリウッド映画みたいな魔法がない! だって、真似事のコピーにしか見えないもの。小手先でちょこちょこっと作りました、という感じだ。私には、フランスのちょっとおしゃれな映画人が「昔のハリウッド風につくったら面白いからやってみようぜ」的に作ったものとしか見えないのだ。こういう映画をギミック(仕掛け、策略)という。
しかし、それでいいのか、ハリウッド…。
もちろん映画単体としての質はいいし、多くの人が楽しめると思うのだが、こういうギミックものが、今年1番の映画として世界で最高の賞をもらうのはどうかと思うのだ。そこが問題なのだ。ハリウッド、もう才能もアイデアも枯渇してしまったのか…。
たとえば、70年代のロックバンド、クイーン。フレディ・マーキュリーの声にそっくりのボーカリストを擁したロックバンドが、もし現代にいたとする。で、いかにもクイーンらしいブライアン・メイばりのギターに、ボヘミアン・ラプソディみたいな多重録音のコーラスなど満載の、キャッチーなメロディーの新曲ばかりのアルバムを今年2012年に作ったとする。で、それが今年のベスト・アルバム賞をもらったとしたら、音楽ファンとして素直に喜べるだろうか? …ま、そんなような感じを受けた。ぶつぶつ…。
それにこの映画、作品賞以外にも、主演俳優とかいろいろと過剰受賞をしていたのも気に入らない…のでちょっと機嫌が悪い。

でも、いい場面もあった。あのメリル・ストリープさんが今までに17回もノミネートされ、3回も受賞してるのに、やっぱりうれしそうに目に涙を浮かべて喜んでいるのを見るとこちらも泣いてしまうし、『The Help、ヘルプ ~心がつなぐストーリー~ (2011)』の女優オクタビア・スペンサーさんが助演女優賞をもらって慌てふためいて泣いてるのもほんとに感動的だった。ああいうほんものの感情は、心を動かされる。心からおめでとうございますと言いたい。
ところで、同じ『The Help』の主演女優、芯の強い女性を演じたヴィオラ・デイヴィスさん。受賞は逃したものの、彼女は昨日の授賞式で、映画の役と全然似ても似つかないくらい(あまりにも)美しくて、何度も画面に映ったのに、主演女優のノミネートで名前が呼ばれるまで、誰だか全然わからなかった。びっくりだ。女優として体張ってるなという感じだ。彼女はいつか賞をもらうだろうと思う。応援したい。
そういえば、また『The Help』で同じく助演女優賞にノミネートされたジェシカ・チャステインさんもいい。『Tree of Life、ツリー・オブ・ライフ』にも出てて見たのは2回だけなのだけど、二役で全然別人。上手い。これから注目ですね。
私はやっぱり女優、俳優ががっつり真面目に役に取り組んで、女優魂、俳優魂をを見せてくれるような映画のほうがいい。ギミックはいかんと思う。


その他
ビリー・クリスタルがご老体に鞭打って司会をやっていたが、今のアメリカの映画界、芸能界の問題は、ビリー・クリスタルを引き継いで、安心して司会を任せられる20歳くらい年下の実力派コメディアンがまだ出てきていないということだ。ハリウッドも人材不足なのだなと思う。ほんとに、ビリ・ークリスタルなんてもう20年もやってるんだもの。



2012年2月26日日曜日

源氏物語の映像化2-私のアイデア=妄想


前のエントリーで、源氏物語の映像化は、光源氏に読者それぞれのイメージがあって難しいと書いたのだが、その後アイデアが浮かんだ。これは私の妄想。

光源氏の顔を見せない「源氏物語」の映画化だ。 笑

この光源氏なら(誰にとっても)限りなく美しいまま。映画なら時間制約があるので、内容も彼の幼年期から20代までとする。ドラマチックな若い光源氏の女性遍歴の映画だ(いつもそうだけど…)。最後は「澪標」あたりで静かに終わる。紫式部&菅原道長カップルも要らない。原作を淡々と忠実に映像化すればいい。

この源氏は若い。地位も財力もあって甘やかされて育った世間知らずのボンボンだ。自信にあふれた成人の魅力的な男性というよりも、恵まれたバックグラウンドをもとに好き勝手に振舞う(ちょっと影のある)子供という感じでいい。そもそも10代から20代前半までの男性はホルモン過剰で善悪の判断も誤るほど情熱的なものだ。だからこそ、非常に一途で、素直で、正直で、直球。同時に驚くほど繊細でもある。純粋な子供のようにどの女性とも本気で恋に落ちる。だから始末に負えない。美しい人であるだけに周りの女性陣も彼に振り回される。こういう若い人なら実際にいそうだ。10代からのいろいろな経験を経て、20代後半の最後まで少しずつ成長していく。

もちろん、光源氏は画面に登場する。彼はスマートで背が高く、非常に美しい手をしている。首筋もすらりと清らかだ。美しい立ち姿、後頭部、温かみのある優しい声。…が、顔を画面上に決して見せない。カメラは彼の後姿、首筋、耳、顎と首のラインまでの接写、女性を抱く腕、髪を撫でる手、それに豪華な衣装、絹の艶やかで贅沢な質感など、若く美しい男の部品をとことん写しこむ。女性と倒れこんでも、見えるのは女性の顔。観客には、光源氏の背中と後頭部しか見えない。要は、後姿と魅力的な部品の映像で、ぼんやりとした若く美しい男の姿を抽象画のように作りこむのだ。(実は三浦春馬さんを見ていてイメージが浮かんだ。彼ぐらい若い人がいい)

あとは、女優達の腕の見せ所。観客は彼女達のめまぐるしく変わる表情、迫真の演技から、間接的にこの魅力的な光源氏を想像する。というのも、この源氏物語の始めの頃、光源氏その人の話のように見えて、実は女性達の話だからだ。この物語が1000年も昔に書かれていながら、今に至るまでずーっと魅力的であり続けたもうひとつの理由は、この本の女性達の光源氏を思う切ない気持ちが、女としてどんな時代であっても「わかる」リアルなものだからだ。さすが女流作家。そう思えば、この女性達のほうに光を当てて、映画化することも可能だろう。

女優陣はとことん贅沢な配役でお願いしたい。上手い女優さんたちをぜひ。若い女性には実年齢の子役や女優さんを、大人の女性には大人顔の美人を配役する。出来れば、手の届かないような美しさを表すために、女性陣のメークも最新の美人メークをするのではなく(時代が変わると安っぽくなる可能性あり)、リアルな眉なしにする(あの眉なしが時代考証に本当にあっているのか分からない。絵巻物をみると普通の眉かもしれないとも思う)。ちょっと怖いくらいがちょうどいい。黒澤明監督の『乱』の原田美枝子さんのように怖いぐらいでいい。全員室内で囁くような声で話す。照明もリアルに薄暗くやってほしい。

普通に考えられる映画作りのような、現代の俳優と現代風美人の女優が平安のセットで現代劇を演じるのではなく、(よくあるタイプのキラキラした映像化ではなく)、「かつて日本にはこんな時代があった」ぐらいの突き放したイメージがいい。あくまでも芸術的な雰囲気を大切に。カメラと俳優の関係もよそよそしいか、反対に近すぎるくらいの親密な接写で。衣擦れの音などの効果音も豊かに。CGも使わず重厚な雰囲気でお願いしたい。調度品、セットにはとことんこだわって贅沢にしてほしい。

イメージする重厚さは、ベルトリッチの『ラストエンペラー』あたりの室内の映像。人物の白い顔が暗闇からふぁっと浮き上がるような感じがいい。人物描写のみではなく、当時のリアルな雰囲気を映像に閉じ込めたような「芸術映画」枠で。(黒澤監督とか、勅使河原宏監督とか、どうして源氏を撮ってくれなかったんだろう。)

配役を一人リクエストしたい。今、大河「平清盛」で堀河局をやっているりょうさんに、ぜひ六条御息所を眉なしメークでお願いしたい。彼女は、美人画で有名な上村松園の「焔」=六条御息所のイメージ画にそっくり「コワうつくしい」のだ。

以上、源氏物語映画化の妄想。こういう企画にお金を出してくれる出資者はいないだろうな。


★去年の12月、日本で映画『源氏物語 千年の謎』が公開されたそうです。予告などをネットで見るといい雰囲気ですね。見たいな。ただ、この主演の生田さんがアメリカのコメディアン、ジミー・ファロンにそっくりなので、真面目に見れないかもしれない。でも機会があったらぜひ見たい。

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源氏物語の映像化1-なぜ源氏物語は映像化が難しいのか


2012年2月25日土曜日

RuPaul’s Drag Race, Season 4 うひゃー!


1月のエントリーで5ページも使って、RuPaul’s Drag  Race(ルポールの女装競争)が、素晴らしいと熱弁をふるったのだが…(笑)、2月から始まった今シーズン、ちょっと微妙…。去年のシーズン3まで、本当に素晴らしくて、そのクオリティーの高さ(参加者の外見にも、創造力にも)に目を見張ったものだが、今回ちょっとどうかと思い始めた。

このドラァグクイーンの女装競争、アメリカでオーディションで選ばれた123人のコンテスタントが美と創造力を競い合う番組なのだが、3シーズンまでに登場した参加者は全部でざっと40人弱。もしかして、アメリカのドラァグクイーンのトップ40人が終わったら、ちょっとレベルダウンしちゃったんだろうか。今回のドラァグクイーン達、殆どがまんま「野郎の女装」にしか見えないのだ。

ルポールを含む番組の製作者側の意図も多少疑問だ。今回のシーズン、参加者の美醜はともかく、いきなり最初のチャレンジが「野郎が女装のままプロレスの真似事をする」という…(笑)これは、いかがなものか…。これはたぶんもう美人コンテストではない。

1シーズンから3シーズンまで、ほんとに綺麗な人がいた。びっくりするぐらい。それに本職がファッション関係のプロだったりと、彼等(彼女達)の創造力にも驚くべきものがあったと思うのだけど、今回はそれさえも疑問になってきた。それでもいろいろと彼等の話は興味深いし、応援したいと思うが、単純に美人コンテストとは思えなくなってきた。つまらないリアリティーショーにはしてほしくないけどなぁ…。

もしアメリカの在住の方で番組名を検索してこちらにいらして、私のこの番組に対する賛辞を元に番組を見てみようかなと思われた方には、ちょっと申し訳ないです。


RuPaul's Drag Race 1 ---2012/1/9
RuPaul's Drag Race 2 ---2012/1/10
RuPaul's Drag Race 3 ---2012/1/11
RuPaul's Drag Race 4 ---2012/1/12
RuPaul's Drag Race 5  ---2012/1/13
RuPaul’s Drag Race, Season 4 うひゃー! ---2012/2/26
RuPaul’s Drag Race, Season 4, 最終回 ---2012/5/2
RuPaul’s Drag Race, Season 5 放送開始です  ---2013/1/31

Paula Abdul – Vibeology (1991)   Adore Delano & Trinity K.Bonet
Rihanna – Shut Up And Drive (2007)    Tatianna & Alyssa Edwards

RuPaul - Supermodel (feat. Skeltal Ki)(2017)  ★RuPaul's Drag Race Season 10 Trailer


 

2012年2月24日金曜日

佐藤浩市の役者論(あさイチ、ゲスト;三浦春馬)


金曜日の「あさイチ」のゲストが三浦春馬さん。またもや最近の日本の芸能界に疎い私には初めて見る俳優さんだったのだが、綺麗な人だと思った。その番組中、俳優の佐藤浩市さんへのインタビューがあって、ちょっとした役者論を語っていらした。面白いので、記録したい。


「春馬君は子役からやっているが、よくいる言われたまま役者をやっている子役上がりの役者と違って、よく考えてやっている。…が、僕等(佐藤浩市さん)の世代に比べて、破綻が無い。いい意味でも、悪い意味でも、いろいろと見え過ぎているのではないか。
役者として単純に昔の世代のように、ただ遊べばそれが芸の肥やしになるとは限らないが、時に遊ぶ中で人を傷つけたり傷つけられたりすることが芸の肥やしになることもある。春馬君は身長も180cmで甘いマスクで、弱点が無い。だが、これからその部分と本人が戦っていくのだろう。
「人の記憶に残る役者になろう」と言ったのは、そもそも人の記憶に残る作品と出会うことが難しいこと、そのうえに自分の役が半永久的に人の記憶に残ることが難しいという状況で、それでも出来れば記憶に残る役者になりたい。それを自覚すること。そこまでして人の記憶に残りたいとすがるような役者の弱さを自覚して生きていく。そういうこと(人からの評価)に、すがらないといけない役者をやることの無常観をひきずりながらこの仕事を続けてほしい。」


お二人とも真面目な方々だなと思う。佐藤さんも、三浦さんの真面目な性格をわかった上で、こういう話をされたのだろう。最初の方の「破綻」の話は、そのまま世代論ともとれるわけで非常に興味深い。「真面目すぎるからもっとやんちゃでもいい。女遊びでも酒でも、もっと馬鹿になっていい。そうやって若いうちに体当たりで人や物事にぶつかっていけば、それが将来役者として役に立つ。」ということなのだろう。佐藤さんが今の若い世代の人を見て、ご自分の若い頃と比べて思うことなのだろうか。80年代前半頃までの日本は、今に比べるといろんな意味でずっと野蛮だった。当時の若い人たちの振る舞いも、今よりずーっと野蛮だったのだろうと思う。…が、その分役者として演じられる役柄の幅は今より広かったかもしれない。世間も、ある程度ならそういう若者のオイタを受け入れる余裕があったのだろう。佐藤さんはそういう事を話されているのじゃないかと思った。

もし、世間が規格外のもの(俳優も映画も)を好まず、優等生的な予定調和型の役者ばかりを賞賛するのであれば、日本の映画界や演劇界全体が、小さくこじんまりとまとまってしまいかねない。それは監督も俳優も同じことだ。このままではいけないという佐藤さんの世代の危機感かもしれない。以前のエントリーで大河ドラマ「秀吉」の役者の顔の話をしたのだが、実際に今と比べて、団塊の世代までの役者の顔は全然違う。時代性の違いだという気がしてならない。

それから弱点の話。三浦さんはまだ21歳。非常に綺麗で清潔な印象で、それが今の彼の最大の魅力だ。若くて万人うけするイケメンでルックスがいい等、一見、人としても役者としてもハンデが無い。…が、今までに「いい俳優、上手い俳優」と言われてきた人たちはむしろ美しいだけではない人のほうが多い。松田優作さん、緒形拳さん、西田敏行さん、永瀬正敏さん、香川照之さん、昔なら佐藤さんのお父さんの三國連太郎さん(イヤこの人は若いころ超絶イケメン。ただ存在感がすごすぎる)、森繁久弥さん。勝新太郎さんはすごい迫力だった。三浦さんのように、綺麗な顔、一見弱点が無いことが、役者として弱点にもなり得る事を言っているのだと思う。それを自覚した方がいいと。ハリウッドでさえそんな話を聞く。ブラッド・ピットが『テルマ&ルイーズ』の後、イケメン俳優のタイプキャストに陥らないように苦労をしたのは有名な話だ。三浦さんはまだ21歳、まだそんなことは気にしなくていいと思うが、こういう可能性を知っておくことは大切なことだ。

その上で最後に、「役者というものが、自分本位の自己満足で出来る仕事ではなく、常に他人からの評価を頼りにしなければいけないこと。それに対して(いろいろと思うこともあるだろうが)その事実を自覚するように」と言っている。「謙虚さを忘れるな」ということだろうか。これは多くの若い世代の俳優さん達全てに当てはまるものだろうと思う。佐藤さんはほんとうに優しい先輩だなと思う。


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NHK大河ドラマ「秀吉」-4 -俳優の顔



2012年2月22日水曜日

源氏物語の映像化1-なぜ源氏物語は映像化が難しいのか

 
 
平清盛の第7回、源氏物語の若紫と明石の話が題材になっていてよかった。それで思い出したのだが、そういえばこの源氏物語、いままでに万人が認める大傑作と言われるような映画化がなされていない。なぜか?
源氏物語とは『平安時代中期の日本の京都を舞台とした長編物語。…(中略)…800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語である。物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされる。(Wikipedia)』

源氏物語と言えば「光源氏」。「光源氏」といえば絵にも描けない美形、今の言葉で言うなら超絶イケメン。だってそもそも「光源氏」とは「光り輝くように美しい源氏」だそうだもの。外見だけではない。天皇の第二皇子というやんごとなきお生まれ。頭もいい。何をさせても上手い。近づけばいい香りもする。女性の扱いも、美醜に関わりなく出合う全ての女性に対して限りなく優しい。そんな男、いる?
もちろん女性にもモテモテなのだけど、この光源氏さん、若い頃の女癖もたいへんなものだ。まあ権力も財力も地位もあるし、そういう時代なので許されるのだけれど…。まず18歳で23歳の継母(ままはは)を押し倒し妊娠させ、ガールフレンドは街中にちらばり、それぞれの女性も嫉妬やねたみで問題を起し、たまたま通りかかった家にいた可愛い少女を権力に任せて引き取り(若紫)一緒に暮らし始める。女性問題で地方に隠遁すればちゃっかりと現地のガールフレンドを妊娠させて帰ってくる(明石)…(こういう若い頃の話が映画化されることが多い)等など、日本文学史上最高傑作と言われるこのお話しの始まり(光源氏の20代)は、ぶっちゃけ光源氏さんのスキャンダラスな女性遍歴の話だ(…後で歳相応に落ち着いてくるけど)。
そんな話でも、平安の時代、天皇家をも取り込んだ貴族の話なのでそれはそれは贅沢でうっとりするほど美しい。1000年も前のものなのに、今までに何度も何度も絵画、文学、演劇その他で再生され、日本の全ての芸術の大先生といってもいいほど。色恋の話など人間であれば時代を超えて誰でもわかる普遍性があるし、おまけに物語として独創的で、心理描写も巧み、筋立ても素晴らしいとくれば、映画には最高の題材だ。そんな文学の大傑作、なぜ名作といわれるほどの実写映画化がなされていないのか。
まず過去の実写映画化を調べると、2011年までに6本(?)。ざっと調べただけでもこれらの評価は決して高いものではない(2011年の映画の評価はまだ保留)。テレビドラマも同じぐらいの数が作られているのだが、その時代に話題は提供しても後世に残る大傑作というのは聞いたことが無い。なぜだろう。

それは、この「光り輝くように美しい源氏」=「万人が全て賛同する普遍的なイケメン」というものの実写化がまず不可能だからだ。

人というもの、美形の定義は個人個人それぞれだ。濃い顔を好きな人もいれば薄い顔を好きな人もいる。どんなにイケメンの俳優を連れてきても、100%万人全てが一致してその人を「非の打ち所がなく美しい」と思うことはまずない。それは人間にとっての「美しい人」の定義があくまでも個人的な好みの上に成り立つものだからだ。
おまけにそのキャラが、時代がそうだからとはいえ好色で大変けしからん女癖を持ちながらも、気品に溢れ、人として全く非の打ち所がなく、ますます愛すべき存在…など、どんなに凄腕の脚本家、演出家ががんばっても、そんな人物の実写化は大変難しいだろうと思う。まずいないだろう、そんな人。

この本がこれだけ長い間(1000年間)名作として受け継がれ、いつの時代にも衰えることなく人気だった理由は、この「ありえないほど美しい魅力的な主人公」が文章で書かれたものだからというのが大きいと思う。問題は「美しい」という言葉だ。読者はどんな時代にもこの「美しい人」を想像する。そんな魅力的な男性を想像することは誰にとっても楽しい。ところが、この想像上の「美しい人」は、それぞれの読者好みの「美しい人」だ。普遍的な「美しい人」ではない。100人読者がいれば100人分の「光源氏」の姿が存在する。そんな人物の実写化はまず不可能だろう。
もし、映画の監督がイケメンの俳優を連れてきて「光源氏」に配役すれば、観客は、監督や製作者の考える「美しい人」を無理やり見せられることになる。当然のことながら、それは必ずしも観客全員が賛同するものではない。それに、もしその人物がキャラクターの設定上、「万人の納得する美しい人」であると強制されたとしたら、賛同できない観客にとっては苦痛でしかない。それが源氏物語の実写映像化の難しさだろう。もしかしたら今後も万人が賛同する非の打ち所の無い「光源氏」の映像化=「源氏物語映画の傑作」が作られることは無いのかもしれないと思う。

ところで、そういえばそれで思いついたけれど、日本には昔から現在まで時代を超えて一貫して「美しい」とされる顔が存在しない。「源氏物語」の書かれた平安時代から何百年かの間、日本の美形は薄い顔だった。源氏物語の絵巻物を見れば光源氏は色白のふっくらとした下膨れの顔(うりざね顔)に描かれている。歴史上美男とされた源義経や浅井長政も現代のセンスで美形かどうかは難しいところだ。日本の伝統的な美形、強いて言えば能面の女面だが、あの女面にそっくりな女性がいたとしても現代の男性が彼女を美人と思うかは疑問だろう。それくらい日本の美形というものは定義するのが難しい。要は現代の日本人の感覚で納得できる日本古来から一貫した「美形」というものは、現在ほぼ存在しないに等しいのだ。これは非常に興味深い。西洋には存在する。それは、また別のエントリーで書こうと思う。
▲美人で有名な織田信長の妹、お市の方はきっとこんな顔だ。


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2012年2月21日火曜日

平清盛と映画『ジャンヌダルク/The Messenger: The Story of Joan of Arc』:歴史上の人物、視聴者の期待




 
 

平清盛のレビューをたまに書いているのだが、一般的にこのドラマはどう受け取られているのだろうかとネットをいろいろと覗いてみた。視聴率は苦戦をしているらしいのだが、実際にはいい意味で賛否両論らしい。毎週楽しみにしているファンもいるし、同時に手厳しいアンチ派もたくさんいる。
この清盛と言う人、どうやらいままでの評価も賛否両論の人であるらしいのだ。源頼朝は「いい国作ろう鎌倉幕府」でたいていの人は覚えてるだろうし、義経は悲劇の美少年で有名。過去に何度もドラマや小説、歌舞伎の演目等にもなっている。こういう人たちはキャラクター作りもやり易いのだろうと思うが、この平清盛、源氏の二人に比べるとどうやらよく知られていないらしい。平家物語を読んでいない私もよく知らない。
歴史や古典をを勉強された方なら、この清盛という人のイメージもあるのだろうと思うが、多くの視聴者には初めて学ぶニュートラルなキャラだったりするのだろうと思う。だからこそ、これからの脚本次第でイイ奴にも悪い奴にも料理できるわけだ。今の時点での賛否両論は、彼がまだ子供で人物像がはっきりと見えてこないことにあるのだろうかとも思う。

追記(…と思ったら、近年の大河『義経』で渡哲也 さんが清盛をなさっていたらしい。それは見たい。なんだ結構有名なんですね。)
 
 
映画 『ジャンヌ・ダルク』
 
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『 The Messenger: The Story of Joan of Arc (1999年)/米・仏/カラー/
157分/ 監督; Luc Besson』
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さて、こんな事を考えていたら、海外の歴史物の映画で、近年賛否両論のキャラクターを思い出した。ジャンヌ・ダルク。普通の日本人ならこの人のイメージは、「中世のフランス、神様の声を聞き、それにしたがってフランス軍を自ら率い、イギリスと戦って勝利し国を救ったのに後で火あぶりにされてしまった若い女の子」程度のものだろう。子供の頃に彼女の話を本で読んだことはあっても、特に強い思い入れを持つ人は少ないだろうと思う。
ところが彼女は西洋では聖女(実際の評価は1920年に全カトリック教会の総本山バチカンが彼女を聖人としてから)。フランスでは国民的英雄。真面目なキリスト教徒の多いアメリカでも聖女。いままでに作られた映画もかなりな数にのぼる。フランス製、ドイツ製、ハリウッド製、アメリカのTV映画などなど、どれも彼女を敬虔なキリスト教徒で神の声を聞いた(神様に選ばれた特別な)若い美しい女性として描いている。
ところが1999年、フランスの映画監督リュック・ベッソンがトンデモ・ジャンヌを作り上げた。主演はミラ・ジョヴォヴィッチ。終始一貫してこのジャンヌ、病的に変な人として描かれる。「神の声」は幻聴、「見えるこ」は幻覚、幻視。常にカリカリして、奇声を発し、すぐにキレて怒鳴り散らし、がたがた震え、コントロール不可能。彼女を取り囲むフランスの兵士達も「やれやれ、またかよ…まいったな、しょうがないな」的なリアクション。この変ジャンヌに興味を持ったので、ネットで検索してみたら、なんと15世紀当時の彼女に関する証言や裁判記録等をもとにした「ジャンヌダルク=癲癇(てんかん)説」という学説が出てきた。近年そんな学説が実際に存在するらしいのだ。
(個人的にスピリチュアリズムは嫌いではないが)日本人でキリスト教徒でもなければ、通説で言われていた「神の声」も「見えること」もあまり素直に信じられる話ではなく、彼女が歴史上実在の人物ではあっても(キリスト教にはいろいろとミラクルが起こるものだし)その印象は「まあよく分からない過去の人」という感じだった。
…が、このベッソンの映画、それからネットで行き着いた「ジャンヌダルク=癲癇説」で謎が一気に解けた。このジャンヌなら実在の人物として信じられる。私にとっては、あの美しい聖人ジャンヌよりずーっとリアルだ。ちょっと変な神がかり少女が当時中世のフランスの田舎にいたとする。周りがそんな狂信的な彼女を神の子だと持ち上げたのだとしたら…、中世のヨーロッパ人の宗教観を思えば十分納得できることだ。学説によると彼女の行動は典型的な癲癇の症状なのだという。そう思えばリアルな描写なのだろう。これは非常に興味深い。
ところが、1999年当時アメリカの映画データベースサイト(IMDB)で感想を見ていたら、これを気に入らない人が少なからずいることに気づいた。彼らの中でのジャンヌダルクは一点の曇りもない聖人なんですね。あんな変なキャラは到底受け入れられないということらしい。レビュー欄でもかなりな数の人々が怒り狂ってこのトンデモジャンヌを叩きのめしている。実際にはいろんな意見があって、一部にはもちろん面白いと思う人もいて、要は賛否両論なのだが、美しい聖人ジャンヌしか受け入れられない頭の固い人も結構いるというのもよく分かった。こういう現象も面白いなと思う。
歴史上の人物、ある程度知られている人であれば、ドラマでの料理の仕方が冒険的であればあるほど反対意見も多いのだなと思う。視聴者それぞれもある程度の「こんなふうなキャラ設定」というのを期待しているわけで、それから外れるとがっかりさせられたりするわけだ。ただ、どんなに冒険的ではあっても、話の展開がよく出来ていれば、そんな既成概念も書き換えることが出来る。これが脚本家の力の見せ所なのだろうなと思う。
それを思えば、今年の大河の平清盛は900年も前の人。記録に残る彼の人となりもあまり詳しいものではなく、実際の彼がどんな人物だったのか現代の私達には知る由も無い。だからこそ話として非常に面白くなる可能性もある。がんばれ平清盛!