平清盛の第7回、源氏物語の若紫と明石の話が題材になっていてよかった。それで思い出したのだが、そういえばこの源氏物語、いままでに万人が認める大傑作と言われるような映画化がなされていない。なぜか?
源氏物語とは『平安時代中期の日本の京都を舞台とした長編物語。…(中略)…800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語である。物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされる。(Wikipedia)』
源氏物語と言えば「光源氏」。「光源氏」といえば絵にも描けない美形、今の言葉で言うなら超絶イケメン。だってそもそも「光源氏」とは「光り輝くように美しい源氏」だそうだもの。外見だけではない。天皇の第二皇子というやんごとなきお生まれ。頭もいい。何をさせても上手い。近づけばいい香りもする。女性の扱いも、美醜に関わりなく出合う全ての女性に対して限りなく優しい。そんな男、いる?
もちろん女性にもモテモテなのだけど、この光源氏さん、若い頃の女癖もたいへんなものだ。まあ権力も財力も地位もあるし、そういう時代なので許されるのだけれど…。まず18歳で23歳の継母(ままはは)を押し倒し妊娠させ、ガールフレンドは街中にちらばり、それぞれの女性も嫉妬やねたみで問題を起し、たまたま通りかかった家にいた可愛い少女を権力に任せて引き取り(若紫)一緒に暮らし始める。女性問題で地方に隠遁すればちゃっかりと現地のガールフレンドを妊娠させて帰ってくる(明石)…(こういう若い頃の話が映画化されることが多い)等など、日本文学史上最高傑作と言われるこのお話しの始まり(光源氏の20代)は、ぶっちゃけ光源氏さんのスキャンダラスな女性遍歴の話だ(…後で歳相応に落ち着いてくるけど)。
そんな話でも、平安の時代、天皇家をも取り込んだ貴族の話なのでそれはそれは贅沢でうっとりするほど美しい。1000年も前のものなのに、今までに何度も何度も絵画、文学、演劇その他で再生され、日本の全ての芸術の大先生といってもいいほど。色恋の話など人間であれば時代を超えて誰でもわかる普遍性があるし、おまけに物語として独創的で、心理描写も巧み、筋立ても素晴らしいとくれば、映画には最高の題材だ。そんな文学の大傑作、なぜ名作といわれるほどの実写映画化がなされていないのか。
まず過去の実写映画化を調べると、2011年までに6本(?)。ざっと調べただけでもこれらの評価は決して高いものではない(2011年の映画の評価はまだ保留)。テレビドラマも同じぐらいの数が作られているのだが、その時代に話題は提供しても後世に残る大傑作というのは聞いたことが無い。なぜだろう。
それは、この「光り輝くように美しい源氏」=「万人が全て賛同する普遍的なイケメン」というものの実写化がまず不可能だからだ。
人というもの、美形の定義は個人個人それぞれだ。濃い顔を好きな人もいれば薄い顔を好きな人もいる。どんなにイケメンの俳優を連れてきても、100%万人全てが一致してその人を「非の打ち所がなく美しい」と思うことはまずない。それは人間にとっての「美しい人」の定義があくまでも個人的な好みの上に成り立つものだからだ。
おまけにそのキャラが、時代がそうだからとはいえ好色で大変けしからん女癖を持ちながらも、気品に溢れ、人として全く非の打ち所がなく、ますます愛すべき存在…など、どんなに凄腕の脚本家、演出家ががんばっても、そんな人物の実写化は大変難しいだろうと思う。まずいないだろう、そんな人。
この本がこれだけ長い間(1000年間)名作として受け継がれ、いつの時代にも衰えることなく人気だった理由は、この「ありえないほど美しい魅力的な主人公」が文章で書かれたものだからというのが大きいと思う。問題は「美しい」という言葉だ。読者はどんな時代にもこの「美しい人」を想像する。そんな魅力的な男性を想像することは誰にとっても楽しい。ところが、この想像上の「美しい人」は、それぞれの読者好みの「美しい人」だ。普遍的な「美しい人」ではない。100人読者がいれば100人分の「光源氏」の姿が存在する。そんな人物の実写化はまず不可能だろう。
もし、映画の監督がイケメンの俳優を連れてきて「光源氏」に配役すれば、観客は、監督や製作者の考える「美しい人」を無理やり見せられることになる。当然のことながら、それは必ずしも観客全員が賛同するものではない。それに、もしその人物がキャラクターの設定上、「万人の納得する美しい人」であると強制されたとしたら、賛同できない観客にとっては苦痛でしかない。それが源氏物語の実写映像化の難しさだろう。もしかしたら今後も万人が賛同する非の打ち所の無い「光源氏」の映像化=「源氏物語映画の傑作」が作られることは無いのかもしれないと思う。
ところで、そういえばそれで思いついたけれど、日本には昔から現在まで時代を超えて一貫して「美しい」とされる顔が存在しない。「源氏物語」の書かれた平安時代から何百年かの間、日本の美形は薄い顔だった。源氏物語の絵巻物を見れば光源氏は色白のふっくらとした下膨れの顔(うりざね顔)に描かれている。歴史上美男とされた源義経や浅井長政も現代のセンスで美形かどうかは難しいところだ。日本の伝統的な美形、強いて言えば能面の女面だが、あの女面にそっくりな女性がいたとしても現代の男性が彼女を美人と思うかは疑問だろう。それくらい日本の美形というものは定義するのが難しい。要は現代の日本人の感覚で納得できる日本古来から一貫した「美形」というものは、現在ほぼ存在しないに等しいのだ。これは非常に興味深い。西洋には存在する。それは、また別のエントリーで書こうと思う。
▲美人で有名な織田信長の妹、お市の方はきっとこんな顔だ。
-----------------------------------------------------------------------------------