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2024年7月14日日曜日

TV Mini Series BBC『Disco: Soundtrack of a Revolution』(2023) 全3話:ディスコ・これもまたアメリカの現代史






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『 Disco: Soundtrack of a Revolution (2023)/英/カラー
BBC Two Documentary/3 episodes/1hr x 3
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少し前に米国の公共放送PBSで放送していたものを録画して視聴。英国BBCのミニ・シリーズ・ドキュメンタリー 全3話…オリジナルのリリースは英国で2023年12月16日。米国のリリースは2024年6月18日。



米国のディスコ・ミュージックは1975年頃から若者…当時20代だったベビー・ブーマーを中心に大きな流行となった。元々は都市のゲイクラブで流れていたダンス・ミュージックが、当時の社会の変革と共に一般の若者達にも受け入れられて大きな流れになる。ディスコ・ミュージックはそれ以前から続いていたアフリカ系アメリカ人公民権運動や女性解放運動、1970年代に盛んになっていった性の解放、LGBTプライド運動など、社会の変革期のバックグラウンド・ミュージックであった…という話。


おもしろかったです。ディスコの音楽が巷で流行っていた頃のことはよく覚えてます。私は中学生。洋楽に初めて興味を持ち始めた時期が丁度ディスコの流行っていた時代で、それ以前に聴いていたピンクレディの(踊れる)アイドル曲から移行して、私は当時のディスコ曲を何の抵抗も無く受け入れた。

私がおこずかいで人生最初に買った洋楽・日本盤のシングル(ドーナツ盤)は、

ABBA - Dancing Queen (1977)
 アバ - ダンシング・クイーン
Rod Stewart - Do ya think I’m sexy? (1978)
 ロッド・スチュワート - アイム・セクシー
Leif Garrett - I Was Made For Dancin' (1978)
 レイフギャレット - ダンスに夢中


最初に買ったのはABBAだと思う。当時のラジオ番組「ALL JAPAN POP 20」を聴いて「 Dancing Queen」が大好きでシングルを買ったと記憶している。ついでにロッド・スチュアートとレイフ・ギャレットも買ったのかなと思う。

なんと私が人生最初に買った洋楽はディスコだった。これが私の原点なのだろう。私のダンスミュージック好きのルーツはここにある。特にABBAはユーロポップ・ディスコ。私が今も英国や欧州発のEDMやハウス、トランス、ユーロポップを聴いている理由はこのあたりにありそうだ。

余談だがその後、ラジオで聴いたQUEENの「Don't Stop Me Now」とアルバム『QUEEN LIVE KILLERS』を買って、私はどっぷりとQUEENの沼にハマった。もうディスコは振り返らなかった。その後1990年代までずーっとロックを聴き続けたので私は自分のことをディープなロック・ファンだとばかり思っていた。

しかし原点はたぶんディスコです。
そんなわけで今も毎日EDMを聴いている。



この作品TVミニ・シリーズはダンス・カルチャーの盛んな英国が製作したドキュメンタリー。英国が外から米国のディスコの繁栄と衰退を見て論じた内容なのだけれど、初めて知ることも多く興味深かった。


ディスコは1975年から1980年頃に世界中で流行った。
その発祥の地・米国でディスコが流行った理由はいくつかある。

1975年頃にベトナム戦争が終わり社会の空気が変わった。
 重苦しい戦争の時代が終わり人々は反動で明るいエンタメを求めた
 進歩的なベビー・ブーマーの世代が当時20代半ばに達していた
 当時米国の社会は大きな変革期を迎えていた
 …公民権運動や女性解放、性の解放、LGBTプライド運動などがますます盛んになっていた。

世の中が変化を求めていた。大勢のベビー・ブーマー達が新しい価値観を推し進める。人々は自由を求め、古い考えを捨て、新しい価値観に飛びついた。

ディスコはそのような時代に大きな流行となった。



★ネタバレ注意



番組の感想ではなく、自分用のメモとしてこのドキュメンタリーに描かれた(それから自分でも少し調べた)「ディスコの繁栄と衰退」を記録しておこう。

ディスコが、フィラデルフィア・ソウルから発達してニューヨークのゲイ・クラブに持ち込まれ、巧みなDJの元で1975年頃から進化し発展。いつしかシングル曲がチャートを登り始め、その後映画『サタデー・ナイト・フィーバー』でディスコが大流行。メインストリームにディスコが溢れるようになる。しかし中西部の白人保守層から反ディスコ運動が始まり、たった5年間ほどでディスコの時代は終焉を迎える。


それにしてもイリノイ州シカゴの「ディスコ・デモリッション・ナイト」とは…本当に本当に最悪だ。この話を扱った別のドキュメンタリー『"American Experience" The War on Disco (2023)』は去年の秋に見た。このBBCのドキュメンタリーでもこの事件のことを取り上げているが、ここではネット上で調べた事件についての情報も追加して書き加えた。

白人保守層によるディスコ排斥運動は、そのまま米国の人種問題と関わっている。ディスコの流行によって「社会の弱者達」、白人達が思うところの「持つべきでない者」が富や力を持つことに対する白人たちの不満が「反ディスコ運動」のエネルギーとなった。米国の闇がここにある。米国はこのような歴史を何度も繰り返してきたし、そしてそれは今も続いている。

私は今はロックはほとんど聴かないのだけれど、その理由の一つは…アメリカの白人層と関るようになってから度々「人種に関する米国白人特有のいびつなもの」を感じるようになって、彼らが誇りとする音楽にも興味を失ったから…とも言えるのかもしれないとも思う。私はロックで怒りのこぶしを振り上げるより、ディスコやEDMでヘラヘラ笑顔で踊りたい。アメリカの白人の保守層とは(この話を見ても)つくづく関わり合いになりたくないものだと思う。ダサすぎ。



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ディスコの歴史
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最初はペンシルバニア州フィラデルフィアで起こった1960年代後期頃のフィラデルフィア・ソウルが、いつしかニューヨークのアンダーグラウンドのゲイ・クラブに飛び火。クラブの客層はゲイの黒人やヒスパニック系などのマイノリティが多かった。

ダンス・ミュージックがニューヨークのナイトクラブで大きくなっていくにつれ腕の立つDJも現れる。その頃、メディアがそれらのナイト・クラブを「ディスコテーク/Discothèque」と命名。

その後ダンスミュージックにインスパイアされたR&Bの曲がシングル・チャートにも上がり長い期間留まるようになる。ラジオがディスコを流し始める。ディスコがメイン・ストリームになだれ込む。

1977年には映画『サタデー・ナイト・フィーバー/Saturday Night Fever』」が空前の大ヒット。ディスコでお金が回り始める。誰も彼もディスコのフォーマットに飛びつくようになる。

…当時、ロックのアーティストまでディスコの曲を出すようになった。上記のロッド・スチュアートもそう。ポール・マッカートニーのWingsもディスコ調の「Goodnight Tonight」をリリースしてヒットしたのはよく覚えている。そうだ…そもそも英国/豪州のビージーズは元々ソフト・ロックのグループだった。

ディスコのジャンルからスーパー・スターも現れる…ドナ・サマー、グロリア・ゲイナー、アニタ・ワードは…女性でアフリカ系のアーティスト。それ以前には社会の弱者だったアフリカ系の彼女達はディスコの流行の中で大スターとなった。新しい時代の象徴だった。


ディスコはますます流行りのものとして大きく発展する。元々はアンダーグラウンドのマイノリティが集うナイトクラブ…人種や性別、性的な選択を問わない…自由な若者の集うオープンな社交場だったディスコが、いつしか「Studio 54」を頂点とする大都会のエリート達が集う社交場…「選ばれた者」だけが入店を許されるエリート達のエクスクルーシヴなディスコへと変わっていくにつれ、ディスコの趣旨は次第に変わっていく。

巷ではディスコが売れに売れ…売れすぎて、次第に人々はディスコに飽き始める。子供のテレビ番組にまでディスコ調の曲が流れるようになる頃には、次第にディスコが「かっこわるいもの」にも変わっていった。人々はうんざりし始める。

ニューヨークのエクスクルーシヴなクラブは裕福な美しいエリート達がアルコールとドラッグに溺れる場所でもあった。超排他的なクラブで自由の名のもとに乱れ踊る人々。


1978年頃からディスコへの反動が起こり始める。

ディスコはSinful/罪深いもの、邪悪なものだと考える保守層が現れ始める。ディスコは速いスピードで大きく流行したからこそ陰りが見え始めれば反発の動きも大きかった。特に中西部の白人の保守層がディスコに噛みついた。

反動の理由はディスコ・ミュージックがあまりにも流行り過ぎて人々がうんざりしたのが一番。そしてディスコが元々はゲイ・カルチャーとの関係が深かったこと…特に白人の保守層がここに食いつく。また彼らにとってはアフリカ系の女性がディスコでスーパー・スターになることも我慢ができなかった。それからディスコが流行り過ぎたために、ロックファンの間では「ディスコが、それまで白人が楽しんできたロックを消滅させるのではないか」との危惧もあったそうだ。


中西部イリノイ州シカゴのラジオのDJ・Steve Dahl 氏が、そのような反ディスコ運動の旗手となる。「Disco DAI (die)」や「Disco Sucks」などのスローガンが出始める。1979年には白人の保守的なロックファンに支えられた反ディスコ運動が始まる。反ディスコ運動はシカゴを中心とする中西部から、ワシントン州シアトル、オレゴン州ポートランドなどに飛び火。白人保守層のロックファンによる反ディスコを唱える暴力行為が行われるようになった。

1979年7月、シカゴのWhite Soxの球場でスペシャル・イベント「ディスコ・デモリッション・ナイト/Disco Demolition Night」が開催された。観客は破棄したいディスコのレコードを持ち寄ればWhite Soxのゲームに98セントで入場できた。球場が反ディスコの人々で一杯になった。皆が持ち寄ったディスコ・レコードは球場の巨大な木箱に投げ入れられ、 反ディスコ運動の旗手 Steve Dahl の指揮の元、木箱に爆弾が仕掛けられ爆破された。その後、球場には荒れ狂った人々がなだれ込みケオスとなる。結局騒ぎはシカゴ市警察の機動隊によって鎮圧された。 ディスコは終焉を迎える。

ディスコの時代の終焉の後、ディスコは地味ながらもゆっくりと…電子音楽や、ハウスを中心としたクラブ音楽…テクノやアシッド・ハウス等を含む… EDM に形を変え今も脈々と続き今に至っている。

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近年このブログで取り上げる現代のダンス・チャートにも、あきらかに1970年代のディスコ調を再現した曲…Nu-Discoなどと呼ばれる曲がよく入ってくる。英国は特に70年代のディスコ風の音を忘れることなく温め続けているようだ。2000年頃のロンドンのアシッド・ジャズ/ハウスにも明らかに70年代のディスコ調の曲があった。英国では今もディスコが生き続けている。


私が1980年代に東京に進学してから出かけたいくつかのディスコ(当時の学生は皆ディスコに行っていた)は、名前だけはディスコだったものの(私が中学の頃に憧れた)1970年代のディスコとは様子が違っていた。米国のディスコ・ブームはもちろん既に終わっていたし、流れる曲も1980年代の普通の洋楽ポップスだった。流れていたのはCHICやSister Sledgeやドナ・サマーではなく、ヒューマン・リーグやホール&オーツやデュラン・デュランだった。外タレがよく来ていたと聞いた Lexington Queen にも行ってみたがロックスターは誰も見かけなかった。

余談だが、1990年代後半~2000年頃のロンドン。今アラカンの私の世代が当時まだ30代半ばだった頃、ロンドンのパーティーに行くとよくABBAが流れていた。当時ロンドンではABBAがリバイバルでベストアルバムが大ヒットしていた。会社の大掛かりなクリスマス・パーティーなどに出かけるとABBAが流れて、同世代の30代の男女が大勢でわらわらABBAや70年代のディスコ曲で踊っていた。私も旦那Aと彼の同僚達とフロアの真ん中で狂ったように踊り続けた。中学の頃に聴いていた曲でガンガン踊るのは最高に楽しかった。