「秀吉」と近年の大河ドラマを比べて見えてくる時代性
2.女性達
劇中、女性の扱いも全く違う。女性は強くはあっても、前に出てくることは無い。もちろん主役は秀吉なのだから、女性を主役にした「功名が辻」「江」などとは設定が違うのだけれど、それでも全体的に女性の描かれ方はずいぶん違うものだ。一番自己主張をするのが秀吉の妻おねだろう。秀吉も一見嫁には頭が上がらないように描かれているのだが、結局秀吉は好き勝手に振る舞い、基本的に嫁に気兼ねするなどということはいっさいない。気に入らなければ嫁も怒鳴り散らす。出張で華やかな京都に行けば遊郭で若い女の子達を膝に乗せて、はしたなく騒いでいる。嫁は自宅で一人静かに泣くのだ。結局愛人も子供ごと受け入れ一緒に暮らし始める。そんなおねの心理的な葛藤が描かれているのだが、男社会だった昔はそういうものだったのだろうと自然に納得させられてしまう。遊郭と言えば、あの茶人、千利休まで遊女を膝に乗せている場面には驚いた。
前田利家の妻まつは、口も軽いが頭も軽い女性として描かれる。石川五右衛門の恋人の扱いなんてもっとひどい。わけあって遊女になり秀吉に囲われる。その後五右衛門とよりを戻すのだが、その再会の場面で五右衛門からいきなり首を絞めて殺されかける。男性の所有欲の表現なのだろう。殺すほど恋人を愛する男。所有される女ももちろん喜んでいる。熱いなと思う。感動的なはずの恋人同士の再会場面でそんなふうだ。現代の大河なら、おそらく手を取り合って泣いて喜ぶのだろう。
結局、女性は男社会において物扱いしかされていない。…が、だからこそ彼女達は輝く。彼女達は耐えて涙を流し、それでも愛する男達を健気に支え続け、したたかに生きる。だからドラマなのだ。こんな生き生きとした女性像はもう描かれないのだろうか。