昨日、独ドラマ Netflixの歴史ドラマ『皇妃エリザベート/Die Kaiserin/The Empress』のシーズン 2 の感想を書いたのだけれど、旦那Aとこのドラマについて話していて出てきた疑問…
…シーズン2の最後にハプスブルグの皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が出陣した戦闘は「イタリア独立戦争」のどの戦だろう?
答えは1859年。オーストリア対フランス・イタリア連合軍の大戦(6月24日ソルフェリーノの戦い)に向かって皇帝自らが出陣する様子が描かれていた。その戦に至るまでの政治情勢を調べたので記録する。
まずは戦に至るまでのオーストリアとイタリアの歴史から
★ウィーン会議(1814年~1815年)
(Wiener Kongress/Congrès de Vienne/Congress of Vienna)
1814年から1815年にかけて、オーストリア帝国の首都ウィーンにおいて開催された国際会議。オーストリアの外相メッテルニヒが議長を務め、ヨーロッパ諸国の代表が集った。会場はシェーンブルン宮殿。
答えは1859年。オーストリア対フランス・イタリア連合軍の大戦(6月24日ソルフェリーノの戦い)に向かって皇帝自らが出陣する様子が描かれていた。その戦に至るまでの政治情勢を調べたので記録する。
まずは戦に至るまでのオーストリアとイタリアの歴史から
★ウィーン会議(1814年~1815年)
(Wiener Kongress/Congrès de Vienne/Congress of Vienna)
1814年から1815年にかけて、オーストリア帝国の首都ウィーンにおいて開催された国際会議。オーストリアの外相メッテルニヒが議長を務め、ヨーロッパ諸国の代表が集った。会場はシェーンブルン宮殿。
フランス革命とナポレオン戦争終結後、ヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として、オスマン帝国を除く全ヨーロッパ各国代表が集まり、1814年9月1日から開催された。
会議を主導したのは議長国オーストリアのほか、イギリス、プロイセン、ロシア。戦後の混乱の後、勢力均衡を維持し回復する力を有した欧州の大国同士が、相互に均衡を維持し合う国際秩序(ウィーン体制)を構築する目的で行われた。
オーストリア帝国からは…
君主:皇帝フランツ1世(フランツ・ヨーゼフ1世の祖父)
全権:外相メッテルニヒ公爵クレメンス・ヴェンツェル・ロタール
▲オーストリア帝国の北イタリア支配
ウィーン会議で決められたオーストリア帝国のイタリア支配とは…
イタリア北部のロンバルディアと旧ヴェネツィア共和国領を獲得、オーストリア皇帝が王を兼ねるロンバルド=ヴェネト王国とする。
…オーストリア帝国が北イタリアを支配することが決定された。
▲ロンバルド=ヴェネト王国
(The Kingdom of Lombardy–Venetia/Regno Lombardo-Veneto/Königreich Lombardo-Venetien)
ウィーン会議にて1815年6月9日に公式に成立。
ミラノ公兼マントヴァ公であったオーストリア皇帝フランツ1世(フランツ・ヨーゼフ1世の祖父)がロンバルド=ヴェネト王フランチェスコ1世となる(在位: 1815 – 1835)。それ以後もオーストリア皇帝が国王を兼ねた。
次代皇帝はフランツ1世/フランチェスコ1世の長男・フェルディナンド1世(在位:1835–1848)(フランツ・ヨーゼフの伯父)。
★1848年革命/Revolutions of 1848
1848年からヨーロッパ各地で起こり、ウィーン体制の崩壊を招いた革命。1848年から1849年にかけて起こった革命を総称して「諸国民の春/springtime of the peoples/Printemps des peuples/Völkerfrühling/Primavera dei popoli」とも呼ばれる。
▲1848年までのイタリアの状況
ウィーン体制下のイタリアは
南部に両シチリア王国(スペイン・ブルボン朝系)、
中部に教皇国家、
北部にトスカーナ大公国(オーストリア・ハプスブルク朝系)、
ルッカ公国(スペイン・ブルボン朝系)、
パルマ公国(スペイン・ブルボン朝系)、
モデナ公国(オーストリア・ハプスブルク朝系)、
サルデーニャ=ピエモンテ王国、
ロンバルド=ヴェネト王国
モデナ公国(オーストリア・ハプスブルク朝系)、
サルデーニャ=ピエモンテ王国、
ロンバルド=ヴェネト王国
(オーストリア・ハプスブルク朝系)
が割拠しており、復古体制に対する不満は1821年のカルボナリの蜂起、1831年のジュゼッペ・マッツィーニの青年イタリア結成などに現れていた。
▲1848年革命時の北イタリアの状況
1848年---------------------------------------
▲1848年革命時の北イタリアの状況
1848年---------------------------------------
1月、シチリアのパレルモで暴動が起こり、両シチリア王国からの分離独立と憲法制定が要求され(シチリア革命)、これを第一波として革命がイタリア各地に波及した。
3月にはオーストリアの支配下にあったロンバルディアとヴェネツィアの民衆が反乱を起こして現地のヨーゼフ・ラデツキーの率いるオーストリア軍に勝利し(ミラノの五日間、ダニエーレ・マニンのヴェネト共和国建国)、サルデーニャ=ピエモンテ国王カルロ・アルベルトに介入を要請した。要請を受けたカルロ・アルベルトは早くも3月23日にはオーストリアに宣戦を布告。第一次イタリア独立戦争が始まった。
しかし初めはサルデーニャ=ピエモンテに援軍を送っていた教皇国家と両シチリア王国が途中で戦線から離脱。それに対し本国からの援軍を受けて体勢を立て直したオーストリア軍はラデッキーの指揮の元、7月24日25日のクストーツァの戦いでサルデーニャ=ピエモンテ軍を破る(オーストリア勝利)。
3月にはオーストリアの支配下にあったロンバルディアとヴェネツィアの民衆が反乱を起こして現地のヨーゼフ・ラデツキーの率いるオーストリア軍に勝利し(ミラノの五日間、ダニエーレ・マニンのヴェネト共和国建国)、サルデーニャ=ピエモンテ国王カルロ・アルベルトに介入を要請した。要請を受けたカルロ・アルベルトは早くも3月23日にはオーストリアに宣戦を布告。第一次イタリア独立戦争が始まった。
しかし初めはサルデーニャ=ピエモンテに援軍を送っていた教皇国家と両シチリア王国が途中で戦線から離脱。それに対し本国からの援軍を受けて体勢を立て直したオーストリア軍はラデッキーの指揮の元、7月24日25日のクストーツァの戦いでサルデーニャ=ピエモンテ軍を破る(オーストリア勝利)。
8月6日にミラノはオーストリアに再占領され、ロンバルディア臨時政府は解散させられた。両国は8月9日に休戦。停戦協定が結ばれた。
1849年---------------------------------------
休戦後、革命は急進化し、1849年2月には教皇国家におけるマッツィーニのローマ共和国建国、トスカーナにおける革命の激化を見るに至って、サルデーニャ=ピエモンテはオーストリアに対する戦争を再開。しかし3月23日のノヴァーラの戦いに敗れて、サルデーニャ=ピエモンテ国王カルロ・アルベルトが退位、7月には息子のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が即位した。
残るローマ共和国はフランスの軍事介入により6月29日に崩壊。ヴェネト共和国も8月24日にオーストリアに降伏。ヴェネツィア臨時政府も解散させられ、イタリアにおける革命は打倒された。
休戦後、革命は急進化し、1849年2月には教皇国家におけるマッツィーニのローマ共和国建国、トスカーナにおける革命の激化を見るに至って、サルデーニャ=ピエモンテはオーストリアに対する戦争を再開。しかし3月23日のノヴァーラの戦いに敗れて、サルデーニャ=ピエモンテ国王カルロ・アルベルトが退位、7月には息子のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が即位した。
残るローマ共和国はフランスの軍事介入により6月29日に崩壊。ヴェネト共和国も8月24日にオーストリアに降伏。ヴェネツィア臨時政府も解散させられ、イタリアにおける革命は打倒された。
こうしてイタリア全体に復古体制が復活する中、サルデーニャ=ピエモンテの新国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が立憲君主制を維持し、その後のイタリア統一運動の中心地となった。
▲1848年革命時のオーストリアの状況
宰相メッテルニヒが1815年以来ウィーン体制の維持に努め、ヨーロッパ諸国の民族主義、自由主義運動を弾圧していた。
1840年以来の不況と貿易赤字、1847年からの飢饉による農村の危機、多額の軍事支出によって国家財政は逼迫していたが、フランス二月革命の背景の一つである金融恐慌がウィーンにも及び、メッテルニヒ体制は動揺。
1848年、フランスの二月革命/Révolution française de 1848の成功(王政が倒れ第2共和政となる)が伝えられた影響により、オーストリアの宮廷には自由主義的改革要求が提出された。3月13日に学生の一部が議事堂に押しかけてメッテルニヒの退陣と憲法の制定を要求、ウィーン市内に暴動が拡大。メッテルニヒは辞任してロンドンに亡命した(ウィーン三月革命)。5月15日には新憲法に反対の暴動が起こる。皇帝一家は避難。
その頃北イタリアでは、オーストリアのラデツキー軍が7月24日、25日のクストーツァの戦いでサルデーニャ=ピエモンテ軍を破る。オーストリア国内でも反革命が巻き返し民衆を鎮圧。
※参照
◆ ヨハン・シュトラウス1世作曲
1848年、フランスの二月革命/Révolution française de 1848の成功(王政が倒れ第2共和政となる)が伝えられた影響により、オーストリアの宮廷には自由主義的改革要求が提出された。3月13日に学生の一部が議事堂に押しかけてメッテルニヒの退陣と憲法の制定を要求、ウィーン市内に暴動が拡大。メッテルニヒは辞任してロンドンに亡命した(ウィーン三月革命)。5月15日には新憲法に反対の暴動が起こる。皇帝一家は避難。
その頃北イタリアでは、オーストリアのラデツキー軍が7月24日、25日のクストーツァの戦いでサルデーニャ=ピエモンテ軍を破る。オーストリア国内でも反革命が巻き返し民衆を鎮圧。
※参照
◆ ヨハン・シュトラウス1世作曲
『ラデツキー行進曲/Radetzky-Marsch/Radetzky March』
この曲は1848年7月のクストーツァの戦いでのラデッキー軍の大勝利の祝典のために書かれた曲だそうだ。帝政が廃止された現在のオーストリア共和国でも国家を象徴する曲であり、国家的な行事や式典でたびたび演奏されている
10月6日にはハンガリー支配の反対派がウィーンにて蜂起、市街戦となる(ウィーン十月蜂起)。皇帝一家は避難。
11月21日にシュヴァルツェンベルクが首相に就任。12月2日に皇帝フェルディナント1世が退位。弟フランツ・カールの長男・甥のフランツ・ヨーゼフ1世に譲位。
フランツ・ヨーゼフ1世は18歳で皇帝に即位。同時にイタリアのロンバルド=ヴェネト王国の国王フランチェスコ・ジュゼッペ1世(在位;1848 – 1859)として即位。
★フランスの介入…イタリアとの同盟
その前に…
1851年、ナポレオン1世の甥・ルイ・ナポレオンが国民議会に対するクーデターを起こし独裁権力を掌握。1852年に皇帝に即位して「ナポレオン3世」と名乗るようになる。
フランス皇帝ナポレオン3世はイタリアの解放運動に対して好意的であり、フランスの国益などの複合した思惑からイタリア介入を決意する。
1858年7月、サルデーニャ=ピエモンテ王国の首相に就任したカミッロ・カヴール伯爵がフランス皇帝ナポレオン3世と会談、「プロンビエールの密約」を調印…反オースリア同盟を締結。
1859年、フランスと同盟を結んだサルデーニャ王国カブール首相はオーストリア国境近くでサルデーニャ軍を行軍させてウィーン当局を刺激。オーストリアは4月23日にサルデーニャ軍の動員を解除するよう要求するが聞き入れられず。オーストリアは4月29日にサルデーニャに宣戦布告、ピエモンテに侵攻。フランスも参戦することになる。
● オーストリア軍:兵士19万8000、大砲824門
総指揮官・フランツ・ヨーゼフ1世
● サルデーニャ軍:兵士5万6000、大砲90門
総指揮官・国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
● フランス軍:兵士12万8000、大砲312門
総指揮官・ナポレオン3世
▶ 6月4日 マジェンタの戦い
イタリア勝利。オーストリア軍はロンバルディアの大部分から撤退
ナポレオン3世とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はミラノに入城
▶ 6月24日 ソルフェリーノの戦い
イタリア勝利=フランス=サルデーニャ連合軍の勝利。ナポレオン3世とオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が陣頭に立った戦闘では両軍とも3万人近い死傷者を出した。オーストリア軍はヴェネツィアの背後にある四角要塞地に後退。
◆ドラマのシーズン2の最後にフランツ・ヨーゼフ1世が軍を率いてイタリアに出陣する様子が描かれていた
▲ソルフェリーノの戦いの意味
第二次イタリア独立戦争中の1859年6月24日、イタリア北部ロンバルディア地方のソルフェリーノを中心に行われた戦闘。
ナポレオン3世率いるフランス帝国軍と、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世率いるサルデーニャ王国軍の連合軍が、フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア帝国軍と戦った。
◆ 映画『夏の嵐/Senso (1954)』
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
1866年、第三次イタリア独立戦争の頃のオーストリア占領下のヴェネツィアでの、イタリアの伯爵夫人とオーストリア軍の将校との恋を描いた。
フランツ・ヨーゼフ1世は18歳で皇帝に即位。同時にイタリアのロンバルド=ヴェネト王国の国王フランチェスコ・ジュゼッペ1世(在位;1848 – 1859)として即位。
★フランスの介入…イタリアとの同盟
その前に…
1851年、ナポレオン1世の甥・ルイ・ナポレオンが国民議会に対するクーデターを起こし独裁権力を掌握。1852年に皇帝に即位して「ナポレオン3世」と名乗るようになる。
フランス皇帝ナポレオン3世はイタリアの解放運動に対して好意的であり、フランスの国益などの複合した思惑からイタリア介入を決意する。
1858年7月、サルデーニャ=ピエモンテ王国の首相に就任したカミッロ・カヴール伯爵がフランス皇帝ナポレオン3世と会談、「プロンビエールの密約」を調印…反オースリア同盟を締結。
それによりサルデーニャ王国がオーストリアから攻撃を受けた場合、フランスはサルデーニャ王国を援助すること、そしてサルデーニャ王国はオーストリア領のロンバルド=ヴェネト王国、パルマとモデナの両公国それに教皇国家のレガツィオーネを併合することになるが、その見返りにサルデーニャ領のサヴォワとニースをフランスに割譲することを決めた。
フランスにとっては敵国であるオーストリアを弱体化させる意図があった。またトスカーナ大公国は、教皇領の一部を加えた上で中部イタリア王国とし、君主をハプスブルク家からフランス皇帝の従弟のプランス・ナポレオンに替えること、そして南部の両シチリア王国は現状のままとされた。
★オーストリアと南伊・両シチリア王国の同盟
その頃1859年 2月、オーストリア・ハプスブルグ家皇后エリザベート(バイエルン王ヴィッテルスバッハ家)の17歳の妹マリア・ソフィアが、両シチリア王国のフランチェスコ2世に嫁ぐ。この結婚には政治的な意図があった。
★オーストリアと南伊・両シチリア王国の同盟
その頃1859年 2月、オーストリア・ハプスブルグ家皇后エリザベート(バイエルン王ヴィッテルスバッハ家)の17歳の妹マリア・ソフィアが、両シチリア王国のフランチェスコ2世に嫁ぐ。この結婚には政治的な意図があった。
◆その様子はドラマ内で描かれていた
北イタリアを統治するオーストリアは、各地で起こっていたイタリア独立運動、それからフランスの北伊サルデーニャ王国への介入などに対抗し、イタリア南部の両シチリア王国と姻戚関係=同盟関係を結ぼうとした。
★第二次イタリア独立戦争(1959年)
北イタリアを統治するオーストリアは、各地で起こっていたイタリア独立運動、それからフランスの北伊サルデーニャ王国への介入などに対抗し、イタリア南部の両シチリア王国と姻戚関係=同盟関係を結ぼうとした。
★第二次イタリア独立戦争(1959年)
(Seconda guerra d'indipendenza italiana/Zweiter Italienischer Unabhängigkeitskrieg/deuxième guerre d'indépendance italienne)
1859年にフランス第二帝政とサルデーニャ王国の連合軍がオーストリア帝国と戦った戦争
1859年にフランス第二帝政とサルデーニャ王国の連合軍がオーストリア帝国と戦った戦争
1859年、フランスと同盟を結んだサルデーニャ王国カブール首相はオーストリア国境近くでサルデーニャ軍を行軍させてウィーン当局を刺激。オーストリアは4月23日にサルデーニャ軍の動員を解除するよう要求するが聞き入れられず。オーストリアは4月29日にサルデーニャに宣戦布告、ピエモンテに侵攻。フランスも参戦することになる。
● オーストリア軍:兵士19万8000、大砲824門
総指揮官・フランツ・ヨーゼフ1世
● サルデーニャ軍:兵士5万6000、大砲90門
総指揮官・国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
● フランス軍:兵士12万8000、大砲312門
総指揮官・ナポレオン3世
▶ 6月4日 マジェンタの戦い
イタリア勝利。オーストリア軍はロンバルディアの大部分から撤退
ナポレオン3世とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はミラノに入城
▶ 6月24日 ソルフェリーノの戦い
イタリア勝利=フランス=サルデーニャ連合軍の勝利。ナポレオン3世とオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が陣頭に立った戦闘では両軍とも3万人近い死傷者を出した。オーストリア軍はヴェネツィアの背後にある四角要塞地に後退。
◆ドラマのシーズン2の最後にフランツ・ヨーゼフ1世が軍を率いてイタリアに出陣する様子が描かれていた
▲ソルフェリーノの戦いの意味
第二次イタリア独立戦争中の1859年6月24日、イタリア北部ロンバルディア地方のソルフェリーノを中心に行われた戦闘。
ナポレオン3世率いるフランス帝国軍と、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世率いるサルデーニャ王国軍の連合軍が、フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア帝国軍と戦った。
フランス・サルデーニャ連合軍が勝利した。
この戦いは世界戦史上、交戦当事国の君主が親征に出て軍を指揮した最後の大きな戦闘としても知られている。
この戦いの後、フランスとオーストリアの間で和平条約が結ばれ、オーストリアはイタリアに対する影響力を喪失した。
ちなみに、この戦いの後戦場を目撃したアンリ・デュナンは、戦場の惨状に強い衝撃を受け「ソルフェリーノの思い出」と題した書籍を出版。ジュネーブ条約と国際赤十字の設立につながるプロセスに着手した
▲終戦と戦後
ソルフェリーノの戦場を視察したナポレオン3世は犠牲者の多さに仰天、ヴェネツィアを征服するために要する時間と犠牲を恐れ、また国内からの反対や、プロイセンの介入の可能性、そして強力になりすぎるサルデーニャ王国への懸念も相まってフランスはこの時点で講和を模索。
1859年7月11日、ナポレオン3世は同盟国のサルデーニャ王国に伝えることなく、ヴィッラフランカでフランツ・ヨーゼフ1世と会見。停戦に合意した(ヴィッラフランカの講和)。オーストリアはヴェネツィアを保持するが、ロンバルディアはフランスに割譲、フランスが即座にこの地をサルデーニャ王国に譲渡することになった。その他のイタリアの国境は現状維持する。
カヴール首相は戦争遂行を主張したが、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が却下したため辞職。12月、トスカーナ、モデナ、パルマ、レガツィオーネは中央統合諸州に統一され、サルデーニャ王国との合併が表明された。1860年3月までにサルデーニャ王国は北部と中央イタリアのほとんどを支配した。
★南イタリアとイタリア王国の成立
カヴール首相は南イタリアを支配する両シチリア王国を併合することは考えていなかった。1860年5月、軍事家ジュゼッペ・ガリバルディが千人隊(赤シャツ隊)を率いて、両シチリア王国のメッシーナ、パレルモで起きた民衆の反乱を援助し、9月に両シチリア王国を滅ぼした。そして10月、征服地をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上してイタリア統一に貢献した。
1861年3月14日、サルデーニャ議会はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世をイタリア王と宣言し、イタリア王国が成立した。
※参照
この戦いは世界戦史上、交戦当事国の君主が親征に出て軍を指揮した最後の大きな戦闘としても知られている。
この戦いの後、フランスとオーストリアの間で和平条約が結ばれ、オーストリアはイタリアに対する影響力を喪失した。
ちなみに、この戦いの後戦場を目撃したアンリ・デュナンは、戦場の惨状に強い衝撃を受け「ソルフェリーノの思い出」と題した書籍を出版。ジュネーブ条約と国際赤十字の設立につながるプロセスに着手した
▲終戦と戦後
ソルフェリーノの戦場を視察したナポレオン3世は犠牲者の多さに仰天、ヴェネツィアを征服するために要する時間と犠牲を恐れ、また国内からの反対や、プロイセンの介入の可能性、そして強力になりすぎるサルデーニャ王国への懸念も相まってフランスはこの時点で講和を模索。
1859年7月11日、ナポレオン3世は同盟国のサルデーニャ王国に伝えることなく、ヴィッラフランカでフランツ・ヨーゼフ1世と会見。停戦に合意した(ヴィッラフランカの講和)。オーストリアはヴェネツィアを保持するが、ロンバルディアはフランスに割譲、フランスが即座にこの地をサルデーニャ王国に譲渡することになった。その他のイタリアの国境は現状維持する。
カヴール首相は戦争遂行を主張したが、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が却下したため辞職。12月、トスカーナ、モデナ、パルマ、レガツィオーネは中央統合諸州に統一され、サルデーニャ王国との合併が表明された。1860年3月までにサルデーニャ王国は北部と中央イタリアのほとんどを支配した。
★南イタリアとイタリア王国の成立
カヴール首相は南イタリアを支配する両シチリア王国を併合することは考えていなかった。1860年5月、軍事家ジュゼッペ・ガリバルディが千人隊(赤シャツ隊)を率いて、両シチリア王国のメッシーナ、パレルモで起きた民衆の反乱を援助し、9月に両シチリア王国を滅ぼした。そして10月、征服地をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上してイタリア統一に貢献した。
1861年3月14日、サルデーニャ議会はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世をイタリア王と宣言し、イタリア王国が成立した。
※参照
◆映画『山猫/Il Gattopardo/The Leopard (1963)』
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
1860年、イタリア統一戦争のさなかのシチリア島。シチリアの名家の当主でサリーナ公爵であるファブリツィオはパレルモの近郊に住む貴族。ガリバルディの赤シャツ隊がシチリア島に上陸すると、甥のタンクレディはガリバルディの軍に合流する。シチリア王国の貴族の若者がガリバルディのイタリア統一運動に参加する様子が描かれている。その後タンクレディはサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の政府軍に加わっている。
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
1860年、イタリア統一戦争のさなかのシチリア島。シチリアの名家の当主でサリーナ公爵であるファブリツィオはパレルモの近郊に住む貴族。ガリバルディの赤シャツ隊がシチリア島に上陸すると、甥のタンクレディはガリバルディの軍に合流する。シチリア王国の貴族の若者がガリバルディのイタリア統一運動に参加する様子が描かれている。その後タンクレディはサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の政府軍に加わっている。
◆ 映画『夏の嵐/Senso (1954)』
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
1866年、第三次イタリア独立戦争の頃のオーストリア占領下のヴェネツィアでの、イタリアの伯爵夫人とオーストリア軍の将校との恋を描いた。