「帰ってきた義経」の意味 泣
★あらすじ
文治3年 1187年 源義経(菅田将暉)が平泉に戻ってきた。藤原秀衡(田中泯)が温かく迎えるが程なく死去。源頼朝(大泉洋)は北条義時(小栗旬)を奥州へ送り、後を継いだ藤原国衡(平山祐介)泰衡(山本浩司)兄弟を争わせ、義経を討たせるよう命じる。計画は成功。義経は泰衡に討たれる。
藤原秀衡 |
まず奥州で何があったのかWikipediaから
●文治3年(1187年)
2月10日 藤原秀衡、義経を受け入れる
10月29日 秀衡 死去
側室腹の長男・国衡と正室腹の次男・泰衡の仲は険悪。後継者は正室の生んだ次男・泰衡。秀衡の命により、長男・国衡には父の正室の藤原基成の娘を娶らせる…兄弟が争わぬよう国衡と泰衡を義理の父子関係とした。
秀衡の遺言は「義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ」
●文治4年(1188年)
2月と10月頃 頼朝は朝廷に宣旨を出させて泰衡と基成に義経追討を要請
●文治5年(1189年)
2月15日、泰衡が末弟の頼衡を殺害
2月、3月、4月、頼朝 奥州追討の宣旨を朝廷に要請
(ドラマで義時が平泉に出向いたのは閏4月頃)
閏4月30日、泰衡 従兵数百騎で義経の起居していた衣川館を襲撃。義経と妻子、彼の主従を自害へと追いやる(衣川の戦い)。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31
6月13日、泰衡 義経の首を酒に浸して鎌倉へ送り恭順の意を示した。
京から逃げた義経が奥州に入り、藤原泰衡に討たれるまでの話。
奥州の藤原氏と義経を警戒した頼朝が、朝廷に働きかけて泰衡と基成に義経追討を要請したり、奥州追討の宣旨を要請したりと藤原氏にプレシャーをかけ続け、その圧に負けた泰衡が義経を討ったのが記録にある本当の話らしいです。
とうとう義経が死んでしまったわ泣。もう少し最後の場面を描いて欲しかった。弁慶の立往生も。古典的見せ場が見たかったと思った。
------------------------------------------------
今回は多少無理があると思った設定があったので書いておこう。文句ではない。脚色を面白がってます。ドラマはすごく面白いです。
★義時はどっちの人?
このドラマはフィクションの設定で、義時が奥州に使者として出向く話。義時はフォレスト・ガンプの様に様々な事柄に関わってます。
しかしだからこそ不自然でもあったりする。
義時はストーリー上、今でも「いい人」扱いなのだろうか? 頼朝に「九郎を生かして連れて帰るな」と言われる。それで頼朝に言われるまま自らのアイデアで藤原泰衡に義経を討たせるように仕向ける。結局義経を殺したのは義時のようなもの。粛々と冷静に計画を実行している。
この回の頃の義時はほぼ26歳。頼朝に仕えて結構な時間が経ってる。以前の上総広常や義高、それに静御前の子供などなど…もうそろそろ義時も頼朝のやり方に慣れただろう。もう「義経を殺せ」と言われても驚かないのでは。義経に関してはいずれこうなることもわかっていただろうし。しかし義時、この回も頼朝の言葉を聞いてショックを受けたような顔をする。まだ慣れないのかな。
今回義時は、義経に静御前の事を話して意図的に義経を苦しませ怒らせ、その義経の怒りを泰衡に報告し、泰衡に義経を討つよう進言している。義時は結構な悪人ですよね。義経を助けようなんて微塵も思っていない。
それなのに、義経とは最後まで友人のように親しく話をしているのもまた変。う~む。そろそろ義時は自覚のある悪い奴になった方が自然かも。粛々と仕事をする義時は頼朝の道具。(主人にとっての)善児のあり方とそれほど変わらなくなってきているのかも。
★義時は善児と兄・宗時のことを知っているのか?
知らないのだろう。
★義時は奥州出張が怖くなかったのか?
義時は奥州に出向いて討たれると思わなかったのか?もうすでに藤原氏は頼朝を警戒していただろうし、あちらには義経がいる。義経が「義時の首を鎌倉に送り返せ」と言いかねない。
★義時と善児は何故捕らえられない?
義時が泰衡に義経を討つ事を進言している場面。泰衡の弟の頼衡(川並 淳一)が義時を疑い始め刀を抜いた場面で、いきなり善児が頼衡を刺してしまう。藤原氏の館内で(敵対する)鎌倉からの使者が、泰衡の弟を彼の目の前で殺害する。あれは本来なら義時も善児もその場で討ち取られるか捕らえられるだろう。家人達がやってこないのも変。 藤原氏はあの場で義時を斬って、義経を総大将とし、鎌倉と全力で戦をした方がチャンスがあったかも。
★義時はどっちの人?
このドラマはフィクションの設定で、義時が奥州に使者として出向く話。義時はフォレスト・ガンプの様に様々な事柄に関わってます。
しかしだからこそ不自然でもあったりする。
義時はストーリー上、今でも「いい人」扱いなのだろうか? 頼朝に「九郎を生かして連れて帰るな」と言われる。それで頼朝に言われるまま自らのアイデアで藤原泰衡に義経を討たせるように仕向ける。結局義経を殺したのは義時のようなもの。粛々と冷静に計画を実行している。
この回の頃の義時はほぼ26歳。頼朝に仕えて結構な時間が経ってる。以前の上総広常や義高、それに静御前の子供などなど…もうそろそろ義時も頼朝のやり方に慣れただろう。もう「義経を殺せ」と言われても驚かないのでは。義経に関してはいずれこうなることもわかっていただろうし。しかし義時、この回も頼朝の言葉を聞いてショックを受けたような顔をする。まだ慣れないのかな。
今回義時は、義経に静御前の事を話して意図的に義経を苦しませ怒らせ、その義経の怒りを泰衡に報告し、泰衡に義経を討つよう進言している。義時は結構な悪人ですよね。義経を助けようなんて微塵も思っていない。
それなのに、義経とは最後まで友人のように親しく話をしているのもまた変。う~む。そろそろ義時は自覚のある悪い奴になった方が自然かも。粛々と仕事をする義時は頼朝の道具。(主人にとっての)善児のあり方とそれほど変わらなくなってきているのかも。
★義時は善児と兄・宗時のことを知っているのか?
知らないのだろう。
★義時は奥州出張が怖くなかったのか?
義時は奥州に出向いて討たれると思わなかったのか?もうすでに藤原氏は頼朝を警戒していただろうし、あちらには義経がいる。義経が「義時の首を鎌倉に送り返せ」と言いかねない。
★義時と善児は何故捕らえられない?
義時が泰衡に義経を討つ事を進言している場面。泰衡の弟の頼衡(川並 淳一)が義時を疑い始め刀を抜いた場面で、いきなり善児が頼衡を刺してしまう。藤原氏の館内で(敵対する)鎌倉からの使者が、泰衡の弟を彼の目の前で殺害する。あれは本来なら義時も善児もその場で討ち取られるか捕らえられるだろう。家人達がやってこないのも変。 藤原氏はあの場で義時を斬って、義経を総大将とし、鎌倉と全力で戦をした方がチャンスがあったかも。
★義経はなぜ義時を殺さない?
義時と義経の最後の場面。ドラマとして義経の言葉を聞くための場面なのだろうけれど、あの場面では義経が義時を斬るほうが自然。なぜ逃がす?義経はもう全て諦めていてどうでもよかったのかな。
★そして頼朝の涙?
あの頼朝は義経の首を抱えては泣かないだろう。彼の弟への愛情は全く無いと思う。それよりも義経の首など見たくないのでは。あの時代は恨みだの呪いだの…そういうものを信じていた時代だろうから、頼朝は義経の恨みもが恐ろしいのではないか。自分が殺した弟のことは早く忘れたいと思う。もう1回言う、頼朝の義経への愛情はゼロだったと思う。頼朝びびりだし。
------------------------------------------------
●義経
素晴らしかったです。奥州に帰って来て父親のような秀衡に初めて平家を滅ぼしたことを褒められて泣く。やっぱり彼は誰かに心から褒めて欲しかったのですね。頼朝のことを「兄にとって私はそこまで邪魔なのか。そう思うと、どうでもよくなった」。彼は最後まで頼朝との兄弟の絆を信じたかったのだろう。 菅田将暉さんは上手い俳優さん。この義経のことは忘れない。
●弁慶
「弁慶の立往生」は木の板を着ていたからなのか。なるほど。アイデアに納得。最後の義経とのやりとり「武蔵坊世話になった」「やめてください」がよかった涙。
弁慶 |
●松尾芭蕉
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
奥州藤原氏のことだったのか。
杜甫『春望』
「國破れて 山河在り 城春にして 草木深し」
●里さん
本音をぶつける女。いい。胸に迫ります。こんなところに来たくなかったとか、畑仕事もしたくなかったとか言ってましたがリアル。そりゃ里さんは辛かっただろう。自分勝手な義経のような男に嫁いだばかりに…。彼女が静御前のことを「いい気味だ」と言うのもわかる。やっぱり義経のことが好きだった。好きだから義経も静御前も憎い。 あのような状況で義経に文句を言ったのは自分も「これで最後」だとわかったからだろう。 前回の京での堀川夜討を、里さんが手配したと義経に告げて義経に刺される…あのフィクションの設定はここに繋がった。 ちなみに里さん(郷御前)の父・河越重頼(母は比企尼の次女)は、義経との関わりから頼朝に誅殺されたらしい。里さんは鎌倉にも帰る場所はなかったのだろう。
●大姫
セミの抜け殻で義高のことを思い出す。細やかな表現。うまい脚本。彼女を後鳥羽天皇に入内させようと頼朝が考えている。政子と大姫が静御前を憐れんだことも記録に残っているらしい。
●八重
子供の数が増え孤児院が大きくなっている。
●静御前
彼女も気が強くていい。強い女はいい。ただ可哀想な女ではなく意地を通した女だからいい。比企の道(堀内敬子)に蔑まれて反発し、自ら静御前だと名乗ったけれど、嘘をついてプライドを飲み込むには彼女はまだ若かったのかな。 静御前のその後は不明なのだそう。様々な伝承が各地に残っているらしい。 ●大姫
セミの抜け殻で義高のことを思い出す。細やかな表現。うまい脚本。彼女を後鳥羽天皇に入内させようと頼朝が考えている。政子と大姫が静御前を憐れんだことも記録に残っているらしい。
●八重
子供の数が増え孤児院が大きくなっている。