ドラマの感想と言うよりも、鎌倉時代の歴史メモという感じになってきた。このドラマを機会に歴史を学んでます。そんなわけでドラマに描かれた場面と、記録に残る日付をWikipediaから探してきてメモしてます。
翌正治2年(1200年)正月20日 梶原景時一族が討ち取られる。←前回からの続き。戦いはすでに終わっていました。首桶が頼家と御家人達の前に並ぶ。厳しいですね。つい先日までお互いに話をしていたのに。
梶原景時がいなくなって北条と比企が争うことが予想される。
義時に雇われた善児(梶原善)が養女のトウ(山本千尋)を連れてきた。この子は以前範頼が暗殺された時にいた農民の娘ですよね。善児が育てたのですね。
このトウのアクションがすごいのでスタントかと思ったら、山本千尋さん御本人がアクション・スターだそうだ。彼女は武術太極拳選手として世界ジュニア武術選手権大会で金メダルを2度獲得なさったそうです。すごい~。かっこいい。
善児と言えば、裏キャラで例えば…恐ろしい殺人鬼なのに実は子猫を可愛がってた…とかだったらいいのにと思っていたら、なんと女の子を育てていたとは…面白いですね。
正治2年4月26日(1200年6月9日) 頼朝に仕えてきた安達盛長(野添義弘)が死去。生涯無位無官のままだったそうだ。享年66。←このお方が痛い思いや辛い思いをすることなく穏やかに旅立つ事が出来てよかった。安達さんおつかれさまでした。
癒しの安達さん |
宿老達の数も減り頼家(金子大地)が自ら政をやりたがる。比企能員(佐藤二朗)の介入を喜ばない。この頃、頼家はまだ18,19歳。
正治2年(1200年)4月1日、北条時政(坂東彌十郎)が遠江守に任じられ、源氏一門以外で御家人として初めて守としての国司となった。(Wikipedia)
同年、頼家の室・つつじが善哉を生む。乳母夫は三浦義村(山本耕史)。
頼家の子供達
一幡…母・せつ(山谷花純)===比企家
善哉…母・つつじ(北香那)===三浦家+北条家
北条のりく(宮沢りえ)は比企に対抗して、頼朝の次男/頼家の弟・千幡(母・政子)を頼家の後継者にしようと画策。全成(新納慎也)を焚きつけて、頼家を呪詛するよう指示。全成は千幡の乳母夫であったこともあってそれに同意。
建仁元年(1201年)9月22日までに、北条頼時(坂口健太郎)の名前が「江馬太郎殿泰時」に変わっている。(Wikipedia)
建仁元年(1201)9月、坂東は台風により大きな被害を受ける。蹴鞠をしてばかりの頼家を頼時/泰時が咎める。義時の弟・時連(瀬戸康史)は頼家を見守ると言う。
時連…蹴鞠に堪能なことから頼家の側近として随従する。頼家が重用した比企能員の息子達とも気脈を通じていたが、北条氏一門のための間諜の役割を果たしていたとも考えられる。(Wikipedia)
伊豆の農民達の問題を解決する命を受けて、泰時が伊豆に送られる。
泰時…人格的にも優れ、武家や公家の双方からの人望が厚かったと肯定的評価をされる傾向にある。この回の農民に対するエピソードは、後の寛喜の飢饉(1230年(寛喜2年)から1231年(寛喜3年)の際、被害の激しかった地域の百姓に関しては税を免除したり、米を支給して多くの民衆を救ったという逸話からだろうか。彼は公家や民衆からも評判がよかったそうだ。
建仁2年(1202年)7月22日 頼家が従二位に叙され征夷大将軍に宣下される。(Wikipedia)
建仁2年(1202年)8月23日、泰時が三浦義村の娘(矢部禅尼)/初(福地桃子)を正室に迎えた(Wikipedia)。
建仁2年(1202年)7月22日 頼家が従二位に叙され征夷大将軍に宣下される。(Wikipedia)
建仁2年(1202年)8月23日、泰時が三浦義村の娘(矢部禅尼)/初(福地桃子)を正室に迎えた(Wikipedia)。