昨日の夜、リビングのテレビの前で似顔絵を描いていたら猫さんがやってきた。それまでしばらくどこかに消えていたのに部屋にやってきて人間の腕をそっと舐めた。いつものように尻尾をピンと立てて思わせぶりに横を通り過ぎる。また「ご飯を食べるからついてきて」とか「トイレに行きたい、水を飲みたいから一緒に来て」とか…そういうことだろうと人間は立ち上がる。猫さんの後についてダイニングまで歩いたところでふと思いついた「あ、洗濯物を取り出さなくちゃ」
半地下の小部屋に一人で行く。猫さんはついてこない。小部屋の灯りを点けると明るい色のタイル敷きの床の真ん中に蠢くもの。ムカデだ。10 cmぐらいか。小さいけれどムカデ。ひっくり返って足をウネウネと動かしている。あまり動けないらしい。どうした? 暫く観察。それはなんとか身体を回転させて起き上がったが歩けない。瀕死だ。いつものことだが人間は触るに触れない。無闇に殺生もしたくないもの。しょうがないので逃げないように半透明のプラスチックの箱を被せて上に重い本を置いた。放っておけばそのうち死ぬだろう。その後で外に持って行けばいい。
ふと振り返ると、後を追ってきた猫さんがそんな人間の様子を階段からじーっと見ていた。目が合って1秒。驚いたように階段を駆け上がっていく。
あれ。おかしいな。いつもならムカデと遊ばせろと騒ぐはずなのに。
ムカデはめったに家の中に入ってくることはないのだが、時々外から迷い込んでくる。入ってきたムカデはできるだけ猫に触らせないようにしている。身体の小さな猫が噛まれたら大変だからだ。
しかし本能なのだろうか、猫さんはムカデが好きらしい。ムカデには匂いがあるらしく、猫は匂いを頼りに(運悪く部屋に迷い込んだ)ムカデをフンフンと嗅ぎ出して騒ぎ始める。大抵は人間が猫の異変に気づく。今度は人間が騒ぎ始める。大人二人でパニクって、バケツに入れろだとか丸めた雑誌で叩けだとか…そっちだあっちだと二人で大声を出しながらなんとかつかまえて退治する。ものすごくびびる。心臓がバクバクして緊張する。怖い。噛まれたらどうする。
そんな人間の様子を猫さんは「狩をする親猫を見るように」遠くから眺めている。しかし時々我慢ができずに人間の間に割り込んできてムカデに鼻面を近づける。「あ~だめだめだめだめ危ない危ない危ない危ないっ」興奮した人間が猫さんを抱えてあちらの部屋に連れて行く。猫さんはそれに反発するかのようにまたムカデに突進する。そんな風にムカデが出ると大騒ぎになる。
さて昨晩。そんなわけで動かぬムカデに箱を被せて私はリビングに戻ってきた。暫く似顔絵を描く。それにしても猫さんはどこにいったのだろう?
きりのいいところでマウスを置き、猫さんを探す。こちらの部屋あちらの部屋。旦那Aの仕事部屋。旦那Aに聞いても知らないと言う。どこにいった。クローゼットを開け2ndベッドルームのベッドの下を覗く。階段を上がって一番奥のベッドルームにたどり着いた。部屋の奥のクローゼットを覗き込む。いた。多少興奮気味の猫さんが暗闇からこちらを見ている。「どうした?どうして隠れてるのよ?」
そこではっとする。もしかして彼女はムカデとひとりで戦ったのではないか。あのひっくり返っていたムカデは彼女がやったのか?もしかして噛まれたのではないか。「どうした?噛まれた?大丈夫?どこか痛くない?」 話しかける人間をじっと見つめた後、猫さんはおもむろにクローゼットから出て来た。
彼女はとんと床に降り立つと、いつものように尻尾をピンと直立させ大威張りで人間二人を従えて前を歩く。ベッドルームから出て踊り場を通り、階段を駆け下りて下のバスルームへ。人間に手で酌をさせて水道の蛇口から水を飲み意気揚々。どうやら怪我はしていないらしい。
猫は頭のいい生き物だ。普段家にムカデが入ってくると、真っ先にそれに気づくのは猫さんだ。彼女はムカデと遊ぶつもりなのだけれど、大抵は人間が大騒ぎを始める。そして彼女は蚊帳の外。または抱えられて現場から遠ざけられる。何度もそんな経験をして、どうやら彼女はルールを覚えたらしい。
「ムカデを見つけたら人間に言ってはいけない」
昨日、彼女は人間のいない部屋でムカデを発見した。これはしめたと躍りかかりさんざんつついて叩いて爪をかけてムカデと遊び半殺しにした。そしてムカデがほぼ動かなくなったところで人間の様子を見にいくことにした。
勘のいい人間が、彼女をダイニングに残して現場を見に行った。その後をつける。人間は彼女が遊んでいだムカデをじっと眺めている。人間が振り向いた。あっ、やばいっ。見つかっちゃった。逃げよう。そして彼女は現場から一番遠くのベッドルームのクローゼットに隠れた。
クローゼットから出て来た猫さんを抱きしめ「すごいね。あなたは本当にすごいね。英雄だわ。人間はね、アレは怖いのよ。あなたは平気なのね。でも気をつけてね。噛まれないようにしてね。」 猫はコロコロと喉を鳴らしソファーにひっくり返る。
猫さんがムカデを食べないのは幸い。彼女が今までに仕留めたムカデは7年間で3匹ほど。彼女は遊んだ獲物を食べることはない。不思議だ。
数時間後、箱を被せたムカデは動かなくなった。ムカデの死骸をバケツに入れて外に出す。なぜかその様子を見た猫さんが興奮して家中を走り回っていた。宝物を取られたと思ったのだろうか。