能登半島地震 ─ 寄付・支援情報

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2012年2月22日水曜日

源氏物語の映像化1-なぜ源氏物語は映像化が難しいのか

 
 
平清盛の第7回、源氏物語の若紫と明石の話が題材になっていてよかった。それで思い出したのだが、そういえばこの源氏物語、いままでに万人が認める大傑作と言われるような映画化がなされていない。なぜか?
源氏物語とは『平安時代中期の日本の京都を舞台とした長編物語。…(中略)…800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語である。物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされる。(Wikipedia)』

源氏物語と言えば「光源氏」。「光源氏」といえば絵にも描けない美形、今の言葉で言うなら超絶イケメン。だってそもそも「光源氏」とは「光り輝くように美しい源氏」だそうだもの。外見だけではない。天皇の第二皇子というやんごとなきお生まれ。頭もいい。何をさせても上手い。近づけばいい香りもする。女性の扱いも、美醜に関わりなく出合う全ての女性に対して限りなく優しい。そんな男、いる?
もちろん女性にもモテモテなのだけど、この光源氏さん、若い頃の女癖もたいへんなものだ。まあ権力も財力も地位もあるし、そういう時代なので許されるのだけれど…。まず18歳で23歳の継母(ままはは)を押し倒し妊娠させ、ガールフレンドは街中にちらばり、それぞれの女性も嫉妬やねたみで問題を起し、たまたま通りかかった家にいた可愛い少女を権力に任せて引き取り(若紫)一緒に暮らし始める。女性問題で地方に隠遁すればちゃっかりと現地のガールフレンドを妊娠させて帰ってくる(明石)…(こういう若い頃の話が映画化されることが多い)等など、日本文学史上最高傑作と言われるこのお話しの始まり(光源氏の20代)は、ぶっちゃけ光源氏さんのスキャンダラスな女性遍歴の話だ(…後で歳相応に落ち着いてくるけど)。
そんな話でも、平安の時代、天皇家をも取り込んだ貴族の話なのでそれはそれは贅沢でうっとりするほど美しい。1000年も前のものなのに、今までに何度も何度も絵画、文学、演劇その他で再生され、日本の全ての芸術の大先生といってもいいほど。色恋の話など人間であれば時代を超えて誰でもわかる普遍性があるし、おまけに物語として独創的で、心理描写も巧み、筋立ても素晴らしいとくれば、映画には最高の題材だ。そんな文学の大傑作、なぜ名作といわれるほどの実写映画化がなされていないのか。
まず過去の実写映画化を調べると、2011年までに6本(?)。ざっと調べただけでもこれらの評価は決して高いものではない(2011年の映画の評価はまだ保留)。テレビドラマも同じぐらいの数が作られているのだが、その時代に話題は提供しても後世に残る大傑作というのは聞いたことが無い。なぜだろう。

それは、この「光り輝くように美しい源氏」=「万人が全て賛同する普遍的なイケメン」というものの実写化がまず不可能だからだ。

人というもの、美形の定義は個人個人それぞれだ。濃い顔を好きな人もいれば薄い顔を好きな人もいる。どんなにイケメンの俳優を連れてきても、100%万人全てが一致してその人を「非の打ち所がなく美しい」と思うことはまずない。それは人間にとっての「美しい人」の定義があくまでも個人的な好みの上に成り立つものだからだ。
おまけにそのキャラが、時代がそうだからとはいえ好色で大変けしからん女癖を持ちながらも、気品に溢れ、人として全く非の打ち所がなく、ますます愛すべき存在…など、どんなに凄腕の脚本家、演出家ががんばっても、そんな人物の実写化は大変難しいだろうと思う。まずいないだろう、そんな人。

この本がこれだけ長い間(1000年間)名作として受け継がれ、いつの時代にも衰えることなく人気だった理由は、この「ありえないほど美しい魅力的な主人公」が文章で書かれたものだからというのが大きいと思う。問題は「美しい」という言葉だ。読者はどんな時代にもこの「美しい人」を想像する。そんな魅力的な男性を想像することは誰にとっても楽しい。ところが、この想像上の「美しい人」は、それぞれの読者好みの「美しい人」だ。普遍的な「美しい人」ではない。100人読者がいれば100人分の「光源氏」の姿が存在する。そんな人物の実写化はまず不可能だろう。
もし、映画の監督がイケメンの俳優を連れてきて「光源氏」に配役すれば、観客は、監督や製作者の考える「美しい人」を無理やり見せられることになる。当然のことながら、それは必ずしも観客全員が賛同するものではない。それに、もしその人物がキャラクターの設定上、「万人の納得する美しい人」であると強制されたとしたら、賛同できない観客にとっては苦痛でしかない。それが源氏物語の実写映像化の難しさだろう。もしかしたら今後も万人が賛同する非の打ち所の無い「光源氏」の映像化=「源氏物語映画の傑作」が作られることは無いのかもしれないと思う。

ところで、そういえばそれで思いついたけれど、日本には昔から現在まで時代を超えて一貫して「美しい」とされる顔が存在しない。「源氏物語」の書かれた平安時代から何百年かの間、日本の美形は薄い顔だった。源氏物語の絵巻物を見れば光源氏は色白のふっくらとした下膨れの顔(うりざね顔)に描かれている。歴史上美男とされた源義経や浅井長政も現代のセンスで美形かどうかは難しいところだ。日本の伝統的な美形、強いて言えば能面の女面だが、あの女面にそっくりな女性がいたとしても現代の男性が彼女を美人と思うかは疑問だろう。それくらい日本の美形というものは定義するのが難しい。要は現代の日本人の感覚で納得できる日本古来から一貫した「美形」というものは、現在ほぼ存在しないに等しいのだ。これは非常に興味深い。西洋には存在する。それは、また別のエントリーで書こうと思う。
▲美人で有名な織田信長の妹、お市の方はきっとこんな顔だ。


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2012年2月21日火曜日

平清盛と映画『ジャンヌダルク/The Messenger: The Story of Joan of Arc』:歴史上の人物、視聴者の期待




 
 

平清盛のレビューをたまに書いているのだが、一般的にこのドラマはどう受け取られているのだろうかとネットをいろいろと覗いてみた。視聴率は苦戦をしているらしいのだが、実際にはいい意味で賛否両論らしい。毎週楽しみにしているファンもいるし、同時に手厳しいアンチ派もたくさんいる。
この清盛と言う人、どうやらいままでの評価も賛否両論の人であるらしいのだ。源頼朝は「いい国作ろう鎌倉幕府」でたいていの人は覚えてるだろうし、義経は悲劇の美少年で有名。過去に何度もドラマや小説、歌舞伎の演目等にもなっている。こういう人たちはキャラクター作りもやり易いのだろうと思うが、この平清盛、源氏の二人に比べるとどうやらよく知られていないらしい。平家物語を読んでいない私もよく知らない。
歴史や古典をを勉強された方なら、この清盛という人のイメージもあるのだろうと思うが、多くの視聴者には初めて学ぶニュートラルなキャラだったりするのだろうと思う。だからこそ、これからの脚本次第でイイ奴にも悪い奴にも料理できるわけだ。今の時点での賛否両論は、彼がまだ子供で人物像がはっきりと見えてこないことにあるのだろうかとも思う。

追記(…と思ったら、近年の大河『義経』で渡哲也 さんが清盛をなさっていたらしい。それは見たい。なんだ結構有名なんですね。)
 
 
映画 『ジャンヌ・ダルク』
 
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『 The Messenger: The Story of Joan of Arc (1999年)/米・仏/カラー/
157分/ 監督; Luc Besson』
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さて、こんな事を考えていたら、海外の歴史物の映画で、近年賛否両論のキャラクターを思い出した。ジャンヌ・ダルク。普通の日本人ならこの人のイメージは、「中世のフランス、神様の声を聞き、それにしたがってフランス軍を自ら率い、イギリスと戦って勝利し国を救ったのに後で火あぶりにされてしまった若い女の子」程度のものだろう。子供の頃に彼女の話を本で読んだことはあっても、特に強い思い入れを持つ人は少ないだろうと思う。
ところが彼女は西洋では聖女(実際の評価は1920年に全カトリック教会の総本山バチカンが彼女を聖人としてから)。フランスでは国民的英雄。真面目なキリスト教徒の多いアメリカでも聖女。いままでに作られた映画もかなりな数にのぼる。フランス製、ドイツ製、ハリウッド製、アメリカのTV映画などなど、どれも彼女を敬虔なキリスト教徒で神の声を聞いた(神様に選ばれた特別な)若い美しい女性として描いている。
ところが1999年、フランスの映画監督リュック・ベッソンがトンデモ・ジャンヌを作り上げた。主演はミラ・ジョヴォヴィッチ。終始一貫してこのジャンヌ、病的に変な人として描かれる。「神の声」は幻聴、「見えるこ」は幻覚、幻視。常にカリカリして、奇声を発し、すぐにキレて怒鳴り散らし、がたがた震え、コントロール不可能。彼女を取り囲むフランスの兵士達も「やれやれ、またかよ…まいったな、しょうがないな」的なリアクション。この変ジャンヌに興味を持ったので、ネットで検索してみたら、なんと15世紀当時の彼女に関する証言や裁判記録等をもとにした「ジャンヌダルク=癲癇(てんかん)説」という学説が出てきた。近年そんな学説が実際に存在するらしいのだ。
(個人的にスピリチュアリズムは嫌いではないが)日本人でキリスト教徒でもなければ、通説で言われていた「神の声」も「見えること」もあまり素直に信じられる話ではなく、彼女が歴史上実在の人物ではあっても(キリスト教にはいろいろとミラクルが起こるものだし)その印象は「まあよく分からない過去の人」という感じだった。
…が、このベッソンの映画、それからネットで行き着いた「ジャンヌダルク=癲癇説」で謎が一気に解けた。このジャンヌなら実在の人物として信じられる。私にとっては、あの美しい聖人ジャンヌよりずーっとリアルだ。ちょっと変な神がかり少女が当時中世のフランスの田舎にいたとする。周りがそんな狂信的な彼女を神の子だと持ち上げたのだとしたら…、中世のヨーロッパ人の宗教観を思えば十分納得できることだ。学説によると彼女の行動は典型的な癲癇の症状なのだという。そう思えばリアルな描写なのだろう。これは非常に興味深い。
ところが、1999年当時アメリカの映画データベースサイト(IMDB)で感想を見ていたら、これを気に入らない人が少なからずいることに気づいた。彼らの中でのジャンヌダルクは一点の曇りもない聖人なんですね。あんな変なキャラは到底受け入れられないということらしい。レビュー欄でもかなりな数の人々が怒り狂ってこのトンデモジャンヌを叩きのめしている。実際にはいろんな意見があって、一部にはもちろん面白いと思う人もいて、要は賛否両論なのだが、美しい聖人ジャンヌしか受け入れられない頭の固い人も結構いるというのもよく分かった。こういう現象も面白いなと思う。
歴史上の人物、ある程度知られている人であれば、ドラマでの料理の仕方が冒険的であればあるほど反対意見も多いのだなと思う。視聴者それぞれもある程度の「こんなふうなキャラ設定」というのを期待しているわけで、それから外れるとがっかりさせられたりするわけだ。ただ、どんなに冒険的ではあっても、話の展開がよく出来ていれば、そんな既成概念も書き換えることが出来る。これが脚本家の力の見せ所なのだろうなと思う。
それを思えば、今年の大河の平清盛は900年も前の人。記録に残る彼の人となりもあまり詳しいものではなく、実際の彼がどんな人物だったのか現代の私達には知る由も無い。だからこそ話として非常に面白くなる可能性もある。がんばれ平清盛!


2012年2月20日月曜日

NHK大河ドラマ「平清盛」第7回「光らない君」


この大河、初回で「本格歴史大河の雰囲気。これは楽しみだ」と書いたのだけれど、もしかしたらイロモノ大河かもしれないと思い始めた。イヤそれが悪いわけではなくて、そういうものだと思わなくてはいけないのかなと…。

武家の御曹司、清盛。今日の回で19歳(頃?)。元服もずっと前に済ませて、位もあって御所にも出入りしているのに、まだ薄汚い格好でガウガウ言っている。御所に上がったらもっとまともな装束を着てないといけないのではないか(詳しくないのでよくわからないが)。当時の19歳なら責任もある立派な大人なのに、台詞も振る舞いもまだ13歳ぐらいのノリ。脚本家と演出家のアイデアなのだろうが、松山さんもちょっと演技に力が入り過ぎていないだろうか…。などと思ったが今週の女性とのやりとりを見ていてこれは「平成っ子、平安に行く青春話」なのだと思いついた(それでもちょっとヘンだと思うが)。うわー。

歴史の場面に現代人のキャラクターを持ってくる設定は結構ある。映画「タイタニック」は、あの時代に突如出現したアメリカの現代っ子(デカプリオ)の話だったし、アメリカ人の作った「硫黄島からの手紙」でも日本の兵士が平成の男の子(二宮さん)のしゃべり方。娘コッポラの「マリー・アントワネット」もそうだし、去年の大河「江」もそうだし、この大河もそうなんだろうな。そうだとしたら、リアルを求めてもしょうがないのかもしれない。だから得子が鳥羽上皇を昼間から押し倒しっちゃったりするのか。うーん。

…が、そうだと思って見れば結構面白いのかも。この時代には興味があって映像化を楽しんでいるし、まいいか…。

さて、今週の目玉は二人の女性の登場なのですが、

まず明子(加藤あいさん)。初めて見たけれど、この女優さんはいいですね。まず顔が大人顔。繊細な感情の表現も出来るし、いい感じです。

そして時子(深田恭子さん)。この女優さんは何度か見たことがあるけれど、非常に可愛らしくて29歳に見えない。そう、子供顔なんですね。それにあの可愛い声。だから今の彼女の年齢でも高校生から20代前半なら最高に可愛い。今の時子ならいい。…が、この大河、もし初回の冒頭であったように、平家滅亡まで描くのだとしたら、深田さん、あのルックスとあの声でだいじょうぶか…。
この時子、「清盛亡き後は、宗盛や建礼門院徳子の母である時子が平家の家長たる存在となり、一門の精神的支柱として重きをなした(Wikipedia)」そうで、亡くなる時点で59。壇ノ浦で孫を抱いて海に沈むわけで…ほんとうにだいじょうぶなのか…。

最近の大河で気になるのは、主役の若い女優さんたちが全然歳をとらないこと。髪も真っ黒。皺ひとつ無いつるっとした顔。「功名が辻=ちよ」が亡くなった時60歳。去年の「江」は家康が亡くなった時点で43歳。どちらも主役の女優さんたちがほぼ彼女達の実年齢にしか見えなかったので最近の大河はそういうものなのかと思ったのだけれど…。

平成やんちゃ現代っ子清盛に深キョン時子…、本格重厚時代劇は無いかもしれません…。ちょっと悲しい。

追記:
平盛国になった元鱸丸の上川隆也さん、「功名が辻=一豊」と、「龍馬伝=中岡慎太郎」と今回で3回目に見るのだけれど、この俳優さんは毎回役のオーラが全然違うのでびっくりする。まるで別人。すごく上手い俳優さんなんだろうなと思う。

それから璋子たまこさま(檀れい)この空気っぷりは毎回たまらない。笑

2012年2月13日月曜日

NHK大河ドラマ「秀吉」-8 -世相と大河ドラマ


世相と大河ドラマ

この大河「秀吉」の年1996年は平成8年なのだが、このドラマ、今見てみると話がベタベタの昭和の人情物で驚く。(今の若い人ならあきれてしまうのだろう)昭和の人情物にありがちな臭いせりふ、設定だらけだ。だが毎回毎回、非常に面白い。熱いのだ。どの回にも見せ場があって、DVDを見ていると次も次もと止められなくなってしまう。

原作は堺屋太一さん。1935年、昭和10年生まれ。戦前戦後に子供時代を過ごし後の日本の復興の真っ只中にいた世代だ。60年代を官僚として過ごし、その後作家、政治家、学者、博覧会のプロデューサーまで多彩な経歴をお持ちだ。昭和の激動の時代を第一線で生きてこられた方だ。戦国も激動の時代。もしかしたら原作者がそのようないろんな経験をされた戦前生まれの方だから、この戦国時代の話もこんなに面白いのではないだろうか。

戦国の時代の生きる難しさや辛さ。上司には絶対に歯向かえない厳しい上下関係、ひとつ間違えば命は無い。もとより命はあって無いようなものだ。女性の扱いも荒い。皆いつも死と隣りあわせだ。だが、そんな厳しい状況だからこそ、人物達が生き生きと輝く。こういう荒々しくも情熱的な熱いドラマが書ける人は、平成の今、もういないのかもしれないといったら言い過ぎだろうか。
~∞~

個人的な意見で申し訳ないが、去年の「江」には何一つ心に残る回が無かった。人物と人物の繋がりも薄い。ドラマが薄い。全てさらさらと流れるように話が進んだ。この「秀吉」と「江」、同じ時代を扱った話だとは思えない。

時代考証がどうこうと言う以前に、近年の大河ドラマでの場面、例えば小娘が、人を何百人と殺してきた戦国武将(時の権力者)を「猿、猿」と呼び捨てにし何度もくってかかる描写(江)、戦国武将の嫁が「戦はイヤじゃ」と事あるごとに泣き叫ぶ描写(功名が辻)、戦国大名上杉氏の家老が自宅で赤ちゃんのおむつを換えている描写(天地人)など、世間がこういうものを歴史時代劇として受け入れてしまえるのなら、もう時代が変わったんだろうなとしか言いようがない。

ドラマは、それが作られた時代(または作者の生きた時代)を反映する。この「秀吉」は昭和の原作者に描かれたもの。同じ戦国時代が、平成の若い脚本家の手にかかると違ってくるのも当然のことなのかもしれない。「江」や「大地人」のような時代劇にもそれ相応のファンがいるということは、つまりは現代が非常に穏やかな時代だということなのだろうと思う。たった16年前の大河ドラマ、こんなに違うということは、それだけ日本がこの16年で変わってしまったということなのか。

しかし、これでいいのだろうか。過去の時代を舞台とし、実在した人物を描いた歴史物語であるのに、その時代のルールや決まりごと、タブー、常識を完全に無視し、国営放送が製作する歴史ドラマとして、女性の痴話言をだらだらと一年間も放送して本当にいいのだろうか。大河ドラマとはそういう枠組みのドラマだったのだろうか。

~∞~
さて、この「秀吉」の視聴率、こんなに残酷で下品でベタベタの昭和ドラマなのに、1996年当時、平均視聴率は30%だったと聞く。この作品以降、大河ドラマで平均視聴率が30%を越えた作品は存在しないという。信長にいたっては助命嘆願まであったそうだ。もし今、こんな残酷男祭り昭和人情ドラマを大河枠に持ってきたら、16年前と同じように高い視聴率をとれるのだろうか。それとも、画面が汚い、人物が汚いとクレームの嵐なのだろうか。

今でもこういう内容で視聴率を取れるのかどうか、検討の余地はあると思うがどうだろう。それともこのような熱い面白い話は過去の遺産として楽しむしかないのだろうか。いずれにしても、これからの大河ドラマ、どうなっていくのか楽しみにしている。■



2012年2月12日日曜日

NHK大河ドラマ「秀吉」-7 -残酷さ

「秀吉」と近年の大河ドラマを比べて見えてくる時代性

4. 残酷さ


この時代、戦国時代の演出、描かれ方ががずいぶん荒々しい。血なまぐさい場面もある。信長に嘘をついた僧侶の首が斬られるのだが(斬られる場面はない)次の瞬間、地面にゴムの坊主頭が転がっている(笑ってしまったけど)。演出として成功しているかどうかはともかく、信長のもとに仕える緊張感は良く出ていた。桶狭間では五右衛門が秀吉と全身泥にまみれて斬りあう。光秀の母は、敵からの密書が届けばその場で密使を自ら斬り殺す。浅井、朝倉の髑髏杯は有名な場面だろう。演出としての意図的な残酷さは好きではないが、戦国時代のような、今と全然違う時代を描くのなら、多少の荒々しさは必要だと思っている。汚い格好、多少の生臭さ、人の荒々しさや激しさは戦国の時代ならあたりまえのことだと思う。

数年前「風林火山」の演出がずいぶん荒々しくて、歴史時代劇らしい男のドラマだと喜んでいたら、これが親戚の女性達にことごとく評判が悪かった。あまりに汚くて見る気がしないのだと言う。その後彼女達が「篤姫」を楽しんだのは言うまでもない。面白いのは、そんな彼女達も1996年当時にはこの「秀吉」を喜んで見ていたはずなのだ。この違いはなんなのだろうかと思う。やはり時代の空気が変わったのだろうか。




NHK大河ドラマ「秀吉」-6 -恋愛


「秀吉」と近年の大河ドラマを比べて見えてくる時代性

3. 恋愛

そもそもNHK大河ドラマ、あくまでも歴史劇。歴史を作ってきた男達のドラマだ。まず歴史的な事件がストーリーの機軸になる。色恋の話など所詮どうでもいいことだ。この秀吉も、夫婦の愛情が描かれてはいてもあくまでもサイドストーリーでしかない。基本は秀吉ががむしゃらに出世の階段を駆け上っていく話だ。
私が最近の女性物大河で感じる違和感もそこだろうと思う。「功名が辻」の話の軸は、愛し合った夫婦。それに主人公ちよを取り巻く男達が皆彼女に恋をしているという設定。「江」も23度と再婚して、それが政略結婚であるにもかかわらず(実質人質)その相手といちいち恋に落ちる。それはともかく秀吉と熱烈な恋に落ちた茶々淀君にはびっくりした(あれは好色な秀吉の無理強いだと思う)。こんな風に全ての話を可愛らしくしなければ歴史時代劇も受け入れられない時代になったのだとしたら少し問題ではないだろうか。


2012年2月10日金曜日

NHK大河ドラマ「秀吉」-5 -女性達


「秀吉」と近年の大河ドラマを比べて見えてくる時代性
2.女性達


劇中、女性の扱いも全く違う。女性は強くはあっても、前に出てくることは無い。もちろん主役は秀吉なのだから、女性を主役にした「功名が辻」「江」などとは設定が違うのだけれど、それでも全体的に女性の描かれ方はずいぶん違うものだ。一番自己主張をするのが秀吉の妻おねだろう。秀吉も一見嫁には頭が上がらないように描かれているのだが、結局秀吉は好き勝手に振る舞い、基本的に嫁に気兼ねするなどということはいっさいない。気に入らなければ嫁も怒鳴り散らす。出張で華やかな京都に行けば遊郭で若い女の子達を膝に乗せて、はしたなく騒いでいる。嫁は自宅で一人静かに泣くのだ。結局愛人も子供ごと受け入れ一緒に暮らし始める。そんなおねの心理的な葛藤が描かれているのだが、男社会だった昔はそういうものだったのだろうと自然に納得させられてしまう。遊郭と言えば、あの茶人、千利休まで遊女を膝に乗せている場面には驚いた。
前田利家の妻まつは、口も軽いが頭も軽い女性として描かれる。石川五右衛門の恋人の扱いなんてもっとひどい。わけあって遊女になり秀吉に囲われる。その後五右衛門とよりを戻すのだが、その再会の場面で五右衛門からいきなり首を絞めて殺されかける。男性の所有欲の表現なのだろう。殺すほど恋人を愛する男。所有される女ももちろん喜んでいる。熱いなと思う。感動的なはずの恋人同士の再会場面でそんなふうだ。現代の大河なら、おそらく手を取り合って泣いて喜ぶのだろう。
結局、女性は男社会において物扱いしかされていない。…が、だからこそ彼女達は輝く。彼女達は耐えて涙を流し、それでも愛する男達を健気に支え続け、したたかに生きる。だからドラマなのだ。こんな生き生きとした女性像はもう描かれないのだろうか。