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2012年9月20日木曜日

脚本について考える:『平清盛』と『薄桜記』


 
NHK大河ドラマ『平清盛』が相変わらず苦戦しているそうだ。たまたまなのだがNHK BSでの時代劇『薄桜記』にすっかりはまっている。面白いのだ。何が違うのだろうと脚本について考えてみることにした。

 
まず一番に思うのは『平清盛』に比べて『薄桜記』の人物達が圧倒的に魅力的であること。たった10回しか見ていないのに人物達が人として理解できる。堅物で真面目、律儀で友情に厚く男らしい丹下典膳。その典膳を一途に慕う健気な千春。言葉は荒くても非常に知的、昭和の頑固親父風吉良の殿様、熱い堀部安兵衛。控えめに典膳を慕うお三。計算高いがいざと言う時には力になってくれそうな白竿屋…etc. 話の本筋とは関係の無い小さな場面の積み重ねで、人物の描写に深みが出るということは『薄桜記』第9回の感想にも書いた。

一方『平清盛』。回数を重ねて既に36回も見ているのに、主役の清盛はもちろん、○盛○盛の家族、時子さんさえどういう人物なのか未だ正直よく分からない。俳優さん達は皆大変よく頑張っていると思う。それなのに未だそれぞれの人物像がはっきりと見えてこない。理解が出来ないから魅力的に見えない。当然話は進んでいる。だけど人となりの見えない人物達が、歴史上のぶつ切りにされた時の中で個々の場面だけを表面的に泳いで話が進んでいくような印象。このことは以前、同番組の感想にも書いた。

 
この二つのドラマを見て考えたのは、『平清盛』は『薄桜記』に比べて人物描写のための細かい場面の積み重ねが足りないんじゃないかということ。要は、事件の積み重ねはあっても、人物を知るための場面の積み重ねが少ないのではないか。もっと酷い事を言うのなら、この大河ドラマは脚本で人物を構築する事をせず、俳優の方々の魅力(顔がいいとか、可愛いとか、背が高いとか)と演技だけに頼って人物を作ろうとしていないか…。そうだとしたら、ドラマ作りとしてはとんでもないぞ…。

 


そんな事を考えていてあらためて思ったのは、もしかしたら近年のドラマや映画の脚本は漫画っぽくなってきているのではないかということ。一般的に漫画は限られたページ数で話を進めるため、一見無駄に見えるような場面は好まれない。話が間延びしないように事件に事件を重ねて話を紡ぐものが多いのではないかと思う。結果、そのような表現の方法では、話は劇的に回っていっても、細やかな人物像を構築することは難しいのではないか。もしそうだとしたら大変なことだ。

私達が普段から実生活で出会う人々を知っていくのは、その個人のふとした仕草だったり、色んな場面での細やかな表情、普段は見せない意外な一面だったりする。人を表現するのはそれぐらい繊細なものなのだろう。だからこそ人物の人となりを表現するための場面は、むしろ本筋とは関係ないもののほうがよかったりする。近年の脚本にはそのような一見無駄な場面が少なくなってきているのではないか。

古典的に丁寧な人物描写をする『薄桜記』の人物達を理解できて、漫画の筋のように事件を箇条書きで追い続ける『平清盛』の人物達につかみどころが無いと感じるのもそのような理由によるものではないか…。

 

私は古いタイプの人間なのだろうと思うが、映画やドラマは人物に惹かれて話に引き込まれる。人物描写が十分に出来ていなければ話にも興味が持てない。『平清盛』の問題は脚本のスタイル。近年余りにも世間に広がりつくしてしまった漫画スタイルの脚本のせいではないのか。もしかしたら若い世代の脚本家の方々は『薄桜記』のような丁寧な人物描写が出来なくなってきているのではないか。

おそらく漫画のように事件を重ねるスタイルの脚本は、単発のドラマや映画には向いている。しかし50回も回を重ねるような連続ドラマではかなり辛い。登場人物に惹かれ、自分の家族のように応援したくなってこそ毎週連続で見続けようと思うからだ。まず人に惹かれてこその連続ドラマ。『薄桜記』を見ているとづくづくそう思う。

日本では漫画は限りなくポピュラーな大衆文化だ。誰でも読む。絵と台詞で構築された漫画は、一見ドラマや映画の脚本と同じだと思われることも多いのだろう。しかし実は全く違うものかもしれないのだ。個人的な極論だろうと思うが、『平清盛』と『薄桜記』の二つのドラマを見ていてちょっとそんなことを考えた。