2012年1月27日金曜日

いまさらの『ラストサムライ』論 - 3


この映画の日本人「ラストサムライ」勝元とその一族は、大変に誇りたかく威厳に満ちた姿で描かれている。勝元達が(西洋が近代化で失った)清廉さ、誠実さ、高潔さ、気高さなどの古き良き時代の大変美しい象徴のような存在で描かれているのに対して、近代化西洋化を推し進める大村、バグリー大佐は悪として描かれている。その中間にトムクルーズ。元々悪のサイドから雇われてやってきて勝元(善)サイドの捕虜になり、村で暮らすうちに、そのサムライ一族の美しい生き方に魅了されていく。最後は勝元の側で戦争に参加し、奇跡的に生き残り、最後の生き証人として「ラストサムライ達」の哲学を天皇(日本人)に伝えるという役回りだ。トムクルーズは結局伝達者でしかない。この映画の英雄は、勝元率いるラストサムライ達であることは言うまでも無い。


端的に言って、これほど日本人の自尊心をくすぐる話もないだろう。勝元のサイドはただただ完全なる善として描かれ一切のよどみが存在しない。現代の日本人は近代化の結果こうなったわけで事実上は大村側なのだが、映画を見ている間はみんな勝元率いるラストサムライ達の側に立つ。私ももちろん勝元側に入れ込んで映画を見た。いろいろと妙な映画であることは間違いないが、これまでの映画史上、これほど日本人が外国人に真正面から褒められたこともないだろうと思う。私も多くの日本人もそれにころっと参ってしまった。いい気持ちだもの。


個人的な意見だが、こういう映画は日本人にはまず作れないだろうと思う。それは国内の内戦をこれほど明確な善悪で分けることは不可能であること、それにどう間違っても封建制度がユートピアで近代化は悪などという設定は、現代の日本人には考えられないからだ。美しい武士道とは言っても、それを支えていたのは窮屈は身分制度だったことを私達は常識レベルで知っている。それに近代化を進める大村を悪に仕立てることは間接的に明治時代以降の日本を否定することになりかねない。この映画の監督が外国人であるからこそそんな現実をばっさりと切り捨て、悲劇的な滅びゆく英雄として絶対的な善のラストサムライを作り上げることができたのだ。そんなことは私達日本人にはできないだろう。だからこの映画はエンターテイメントとして非常に面白いのだ。