能登半島地震 ─ 寄付・支援情報

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2012年6月27日水曜日

NHK ドラマ10『はつ恋』第5回-True Heart



これはすごいです。このドラマはほんとにいい。すっかりはまりました。なのでうだうだ書きます。


まず、はっきりと言おう。このドラマの設定、全くありえないです。昼メロも昼メロ(いや見たことはないけど)のとんでもない筋書き。前回も言ったけど、妊娠までした初恋の元カレが現在おフランスの世界的な名医で、20年後、既婚の元カノの命を救う。その元カレは元カノのことが今も好き。(おまけに今回)2人は無事に別れるのに、1年後に今度は元カレがわざわざ静岡の元カノの元へ患者として現われる…。こんな話あるわけ無いですよーいい加減にしてくださいよー…。

それなのに、こんなに惹きこまれてしまうのは、脚本の絶妙な台詞、それから役者さんたちの演技が信じれらないくらい素晴らしいからです。これはいいものを見せていただいてます…。彼らがあまりにもリアルで、人物それぞれの人となりが信じられるから、ついつい真剣に見てしまう。役者さんたちがこんなに上手いと、もうそれだけで話に説得力が出てきてしまう。すごいですね。



潤ちゃん(青木崇高さん)。この役者さんは上手い。こういう人います。超いい人。この誠実な男性は、穏やかに毎日毎日こつこつと丁寧に幸せを紡いでいく人。こういう旦那さんを持った奥さんは幸せです。こういう人が女性を一番幸せにするの。派手ではないけど誠実。自分から奥さんを好きになって結婚した。そんな小さなことにも感謝しているような人。子供がステキな作文を書くと、つい嬉しくて泣いてしまう人。どちらかといえば自分が地味なこともよく解ってるんでしょう。だからそんな日々の幸せにほんのちょっとの陰りが見えると、心配で心配でたまらなくなるんですね。不安でしょうがない。その不安な表情が本当にリアル。全部信じられる。こういう人います。私は潤ちゃんが好き。こういう旦那様を不幸にしちゃあいけません。大切にしましょう。



緑さん(木村佳乃さん)。彼女もそんな潤ちゃんのことが大好きなの。それは間違いない。心から幸せな奥さん。この女性はそんな日常の、ささやかでも確実な幸せの価値をしっかりと解ってる。彼女も家族がなによりも大切なんです。この夫婦はお互いが一緒にいられることの幸せを感謝できてる夫婦。だから見てるこちらも幸せ。

じゃあなぜあの日(前回のキスシーン)わざわざ三島先生に会いにいったのか。下心があったのか…。下心なんてないです。もう一回だけ会いたかったっていうのはあるのかもしれないけど、肉食的に何かを求めて会いに行くような人ではない。ただ、うーん…運命というのか…抗いきれない力(フォース)ですかね…、無意識に引き寄せられるように会いに行ってしまう。 今回もまたそんな風に会いに行った。抵抗できないの。これがまたリアル。大人の恋愛物の一番盛り上がるポイントは、こういう抗い難いフォースに必死で抵抗している時です。

ましてや相手はいわくつきの初恋の人。これは辛い。携帯に送られてきた「出会ってから君を想わなかった日は一日もない」っていう三島先生のメッセージを、とまどい迷いながらも消去してため息をつく。これは消せないな…私なら。でも彼女は消すの。この真面目な女性は、自分の日常の幸せを守ろうと必死で抵抗してます。そんな緑さんの潔癖さやとまどいが、痛々しいほどリアルなのも、木村さんのような清潔感のある女優さんが演じているからなんです。ほんとに素晴らしい配役。(なんだか…延々と書き続けそうだ…)

今回の最後のシーンで、部屋にいた三島先生に対面した時の表情なんてすごいです。一瞬で額に血管の筋がぱーっと広がってびっくりしてるの。恐怖に近い表情。ほんとに驚いてる。こっちまで心臓がとまりそうになる。こんな演技を見せられると話に入り込まずにはいられないです。



三島先生(伊原剛志さん)。この大人の恋愛を成立させているのも、まずこの俳優さんの魅力、これにつきるでしょう。全身から滲み出るような男臭さ。こんな大人の男のかっこよさは、20代や30代の今どきのか細いイケメン君達が50人束になってもかなわない。お医者さんなんて知的な職業で完全にコントロールされているのに野獣みたいな感じ。レストランのバルコニーの手すりに肘をついた後ろ姿の白いシャツの背中がまた大きい大きい。実年齢が50歳ぐらいだからなのかウエスト周りにもそれなりのボリュームがあるのがまたいい。こういう人を見ると綺麗に引き締まった若い人の体なんてつまんないなと思う。

そんな大人のオヤジなのに、三島先生は緑さんといる時、表情が男の子に見えるときがある。レストランで緑さんに謝ってる時も、バス停で困ったように思いつめた表情も小さな男の子みたい。あー切ないんだろうな…。前回緑さんが最後に会いに来たときも、もう切なくて切なくてたまらない表情をしていた。想いを理性でやっと抑えてるんでしょう。そんな表情を見てるとちょっと可哀想にもなる。

この三島先生というのは突然やってきて、いきなり緑さんの心を乱すというそれはそれはもう大変な厄介者なんです。迷惑千万。でも潔癖で真面目な緑さんでさえも、どうしても抗えないような圧倒的な魅力を放っているわけです。伊原さんの配役は最高。こんなむせかえるような大人の魅力でこられたら誰も抗えません。だからドラマ。



こういう俳優さん同士が役柄で非常によく合っているとき、英語ではケミストリー(化学反応)などと言いますが、この2人にも間違いなくあります。切ないです。俳優さん達の繊細な表情の積み重ねが、話にどんどん臨場感を持たせます。すごいです。このドラマは一場面一場面が丁寧に丁寧につくられているんだろうと思う。素晴らしいです。

風景も綺麗。静岡の茶畑がとても綺麗。緑さんの自宅を出ると外に広がる茶畑のシーンがすごくいい。海を臨むバス停のシーンも、イタリアまがいのバルコニーのシーンもとても綺麗だった。このドラマ、綺麗なシーンが多いです。音楽もいい。

来週もまちがいなく大問題。手を重ねて筆記具を持たせてたり…ああいうのはもう作ってる人がしっかり確信犯でしょう。どうかこのまま、先に進み過ぎることなく抵抗し続けて欲しい。潤ちゃんを悲しませたくないわ。タイトルが「Endless Kiss」なんてかなり心配…前進しちゃいけませんヨ…。




日本人はスーパースターになれるのか-12

--西洋におけるアジア人の芸能活動への考察


西洋での有名人とは…アジア人の可能性は? -3-------------------------


12-●外国籍アジア人ポップスターの可能性

さて、それでは外国籍のアジア人はどうなのか。

こういうアメリカでの状況にに対して、K-POPは独自の戦略をとっている。彼らは、訓練に訓練を重ねて質を高く高く、英語で歌って英語でMCを行い、売れるためにアメリカの市場に真正面から挑戦している。しかし、そんな戦略は実は非常に難しいのだ。彼らは英語でアメリカ人のように歌うことにより、アメリカで生まれ育ったアメリカ人のシンガー達と真正面から競争をしていることになる。外国人なのにアメリカ人と並んで売ろうとしているのだ。これはよほど質を上げないと難しいだろう。アジア国籍であることが、強み(異国風の面白み)であると同時にハンデ(コピーと見られる可能性)にもなりかねない。唯一可能性があるとすれば、アジア発であるというなんらかの特異性、商品として大変魅力的なパッケージに、質のいい楽曲と、質のいいパフォーマンス、有無を言わせぬ実力で勝負すること。それから数を打って出てどれだけ当たるかに賭けてみるということだろうか。実際に現在のK-POPの戦略はそのあたりにある。


それ以外に、もしアジア国籍のスターに可能性があるとしたら、アジア国籍であることを最大限にいかして、その国からの独自のパッケージとして売ることだろう。国を背負って売れたアジア国籍の映画スター達と同じ売り方だ。この場合、その国の独自性というのは、必ずしも伝統的なイメージである必要は無い。特に今の日本なら近未来的なイメージも独自性として使えるはずだ。楽曲の質の高さは言うまでもない。ミステリアス、手の届かない存在、誰も真似の出来ない(西洋人には真似の出来ない)圧倒的な独自性、もちろん有無を言わせぬアーティストとしての実力も必要だ…そんなものが武器になる。英語など話さなくてもいいかもしれない。ただしそんな特殊な市場を狙った売り方だから、万人が認めるスーパースターには成りえないだろう。ビルボードHOT100も難しいだろうと思う。私が以前のエントリーで「Perfumeの海外展開での成功の目標は、チャート競争ではなく、記憶に残るアーティストになること」と書いたのも理由はこの辺りにある。

その売り方で、音楽のみで言うのならアイドル(偶像)=スターとしての売り方をばっさりと切り捨てる方法もある。特にエレクトロ、トランス、ハウス…(いろいろあってよく分からないが)などのダンスミュージックは、基本的に機能優先の踊るための曲。極論を言えば、曲がダンス曲としての機能さえ果たしていれば歌っているボーカルは誰でもいい。カエルでもいいのだ(笑)。だからこそ、そういう売り方ならアジア人であるハンデを気にする必要が全く無い。むしろアジア人である特異性(面白み)が武器になる可能性も大きい。以前「Perfumeを海外へ」のエントリーでも書いたのだが、私はPerfumeはこの売り方がいいのではないかと思っていた。過去のYMOの、西洋から見た「(誰がやっているのか知らないが)面白い極東のテクノバンド」の位置付けもこれに近かったと思う。


ともかく、アジア国籍のポップスターにとって西洋の市場は非常に厳しい状況だ。そもそも西洋社会ではアジア人に対する受け皿が小さいのだから、単純に曲の質を上げたり、歌が上手いからと言って状況は簡単に変わるものではない。


では、ほんとうに全くダメなのか。いや実は変わってきている。

次は、アジアと西洋の変わりつつある位置関係について述べたい。




2012年6月26日火曜日

日本人はスーパースターになれるのか-11

--西洋におけるアジア人の芸能活動への考察


西洋での有名人とは…アジア人の可能性は? -2-------------------------

11-●米国国内のアジア系ポップスターの可能性

現在、アメリカの国内でアジア系アメリカ人のスーパースターは可能か? いや今は無理だろうと思う。(ここにテクニカルなタイプのミュージシャンは含まれない)


前述した、アメリカの70%以上の白人、それに12%の黒人人口。その他の人種を含む85%以上を占める人口が、アジア人を憧れの目で見ることはほとんどないからだ。理由は前述したとおり。たった5%に満たないアジア人のアメリカ国内での人口、それにアジアそのものに対する興味や期待感の欠如、マイノリティはマイノリティ、憧れの存在にはなりにくいということだ。


言い換えれば、アジア人をカッコイイと思う人がほとんどいないということ。残念なことだが、これがスタービジネス=人気商売では致命傷となる。ルックスだけなら、まだ可能性はある。アジア系のモデルは多くいる。彼らのエキゾチックな外見はファッション関係なら特殊なカッコイイモデルとして存在可能だ。 また、役柄(付加価値)次第で大変魅力的になれる映画スターにもチャンスは多いだろう。しかし問題はアジア人(系)のポップスターが、一個人として、自分の意見をしっかりと持ち、話術も巧みで面白く、人として魅力的で、アメリカの排他的で保守的な白人一般人のライフスタイルのお手本になり、彼らの心の琴線に触れる歌を歌い、彼らにとっての崇拝の的、あこがれの的=アイドルになれるかということだ。現実には非常に難しいだろうと思う。


それでは、5%とはいってもアメリカ国内に1400万人いるアジア系アメリカ人全てが、アジア系のポップスターを応援するのか。それも難しいだろう。なぜならアメリカ在住のアジア人は、いままでの白人主流の文化にどっぷりとつかっていて考え方も嗜好もほぼ平均的なアメリカ人と全く同じだからだ。いやアメリカ人そのものだと言うべきだろう。だからアジア人だからといって、ただそれだけのシンガーに飛びつくことはありえない。


唯一可能性があるとすれば、黒人との混血によって(いや混血でなくてもいいのかもしれない)黒人枠のR&B系やヒップホップ系のスターとして、または白人との混血によるルックスのいい白人枠でのスターとしての売り方だろうか。前述のCassieや俳優のキアヌー・リーブスのようなタイプなら可能性もあるのかもしれない。


極論を言っているようだが、アジア系アメリカ人のポップスターとしての現状と可能性はこのようなものではないかと思う。現実は非常に厳しいと言えるだろう。


日本人はスーパースターになれるのか-10

--西洋におけるアジア人の芸能活動への考察



西洋での有名人とは…アジア人の可能性は? -1-------------------------

10-●西洋での有名人(セレブリティ)の定義

それなら今度は、西洋での有名人(セレブリティ)の定義ついて考えたい。

そもそもハリウッドのセレブリティやポップスターというものは、一人の人間をアイドル(偶像、崇拝される人や物、あこがれの的)として売る商売の結果だ。過去の英国のダイアナ妃にもマイケルジャクソンにもマドンナにも共通しているのは、彼らが何らかの理由で憧れの存在であるということだ。


仮に女性のスーパースターがいたとする。その場合のファンの心理とは、

彼女みたいになりたい、彼女みたいに踊りたい、歌いたい。彼女の着ている服が着たい。メイクも真似したい。彼女の生き方にあこがれる。彼女は私の気持ちを歌ってくれる。友達になりたい。恋人になりたい。手紙を書きたい。プレゼントを渡したい。握手したい。追いかけたい。CDが欲しい、チケットを買って彼女を見に行きたい。雑誌を買って彼女のインタビューを読みたい…彼女が……etc.


これがファンの心理。マイケルも、ビヨンセも、マドンナも、スーパースターにはみんなこのようなファンがついている。音楽業界なら、こういうファンを持つスター達は、アルバムを出すごとに全ての曲をヒットチャートに送り込む。それはファンが彼らの全てを欲してサポートするからだ。そうやって記録はどんどん上がるばかり。これがポップスターの定義だ。


曲がいいから、歌がいいから…もちろんそれだけでも曲は売れる。だが、スターの場合はそれだけではない。曲の良さもアレンジの上手さも、結局はスター本人の力に還元されるのだ。マドンナのような既に大スターの地位にいる人達は、逆に曲がぱっとしなくても馬鹿みたいに売れてしまう。ビルボードのトップ100などに入る曲にもこんな理由でチャートインするものが少なからずある。結局は歌うスター次第なのだ。


憧れの存在=ポップスター。現在アジア人が西洋でそんなスーパースターになれるだろうか? 

いや今は無理だろう。




2012年6月25日月曜日

NHK大河ドラマ「平清盛」第25回「見果てぬ夢」



清盛マラソンまた息切れしてきた…。そろそろ折り返し地点?


今週は、由良御前が亡くなりました。悲しいです。最後の眉間に皺をよせた苦しそうな表情も、腹から搾り出す苦渋の声も素晴らしかったです。この人はよかった。女優さんがほんとによかった。最後にはらりとこぼれた涙もよかったです(涙)。


ところで、この場面で義朝君が「これから薬を買ってくる」と立ち上がるのだけど、昔、清盛君も同じような場面で「これから九州に薬を買いに行ってくる」とか言いませんでしたっけ。どちらも奥さんが、あと何分ぐらいもつかも判らないのになんで席を立とうとするのか。最後まで一緒にいてあげなさい。だから清盛君がお薬をあげるって言ったときに貰っとけばよかったのに。


義朝君は今回もたそがれてます。息子が清盛のことを聞くと目が遠くなる。「なつかしいのぉ~」ってそんなに和んでる場合かっ。保元の乱までゴリゴリに頭脳のある野獣だったのにどうしちゃったのよ、えっ。 それにしても、回想シーンの清盛君の情けな姿はすごいです。髪型とかもうすごいです。うわっきたないっ、あんなの見てたんだ…(爆笑) きゅうきゅう泣くし…(爆笑)ごめん…笑う場面じゃないと思うが、あの清盛君はすげーです(爆笑)。それに比べると、まあなんとも綺麗になったんだなぁ清盛君。やっぱりユーモアは捨てきれないらしい。今回も茶目っ気たっぷりのしたり顔。



若い頼朝君と清盛の初対面、清盛の前に進み出ると同時に彼のナレーションが「始めて目の当たりにしたその人は、思いのほか大きく…」と重なるのだけど…。

ここで真面目な話を…。この場面のこの台詞で、初めて松山さんの配役を疑問に思ってしまった。ここはドラマとして非常にいい場面なはずなの。将来平家を叩き潰す源氏の棟梁・源頼朝。彼も今はまだ12歳。子供です。初めて対面する父親のライバル平清盛。父親がどうしても負かすことの出来ないアノ清盛。 この場面は、若い頼朝が「…その人は、思いのほか大きく…」と清盛に圧倒される場面なはず。


清盛は41歳。貫禄も威厳も堂々とした大人のオヤジ。この時の清盛には、見るだけで子供が涙目になるぐらいの迫力があったほうがいい。それが松山さん、そう見えない。優しいお兄ちゃんが子供を相手にふざけているように見えてしまう。やっぱり若いのかな。ここで清盛が圧倒的に怖いオヤジじゃなきゃドラマにならないんですよ。今は絶対に超えられない大きな山。だから将来源氏と平氏の立場が逆転するのが話として面白いの。そう考えれば、配役もはやり40歳前後の実年齢で強面のオヤジ…せめて35歳ぐらいかな…あたりの俳優さんがよかったんじゃないか。例えば大昔の渡辺謙さんは本当に大きくて怖かったと思う。かといって他に誰がいいのかも分からないけど…。




清盛も現時点で41歳。これからあと半年、彼の没年齢が64歳と考えれば、このままでいいのか心配になってきた。なんだかまだ可愛いの。いい人過ぎるのかも。そういう役柄の設定なんだろうか。もうそろそろ人を何人殺しても平気な面構えをして欲しい。

それに信西も50代だそうだ。彼も40代前半の阿部さんが演じていて、どうもこの大河は全体的に役者さん達の年齢が若いです。これで義朝と信西が亡くなればもっと若くなるのかな。残りの話を20代と30代だけでまわすことになるのだろうか。


さてこのまま大きな乱に突入のようですが、どうもこのドラマ、歴史の大きなうねりみたいなものが感じられない。抗いようのない歴史のうねりみたいなもの、時代が動く感じって歴史物の最高に面白いところだと思うんだけどな…。個人の思い出話に時間をとったり、どうも話が小さくなってる気がする。

さあ来週はどうなるか…。





日本人はスーパースターになれるのか-9

--西洋におけるアジア人の芸能活動への考察



なぜアジア人は苦戦するのか -3--------------

9-●アジア人の立ち位置2 20世紀はアメリカ(西洋)の時代だった

もう1つの理由に、アジアと(アメリカを含む)西洋の歴史上の位置関係がある。

1819世紀に産業革命がヨーロッパで起こってから(それ以前の啓蒙思想の台頭からと言ってもいい)、西洋は他の地域を大きく引き離し急速に進歩していった。当時の西洋人にとってアジア人とは、キリスト教の教えも知らない野蛮人であり異世界の存在であった。彼らにとって、異人種の住む外国とは、出かけていって植民地にし搾取する場所であったのだろう。西洋の圧倒的な技術力と財力、軍事力に、西洋以外の地域はなすすべもなかったのだ。
唯一それに学び抵抗した日本人。…が第二次世界大戦で敗戦。その後、アジアの国々は政治的な混乱期に突入し停滞を余儀なくされる。その頃から世界をリードしたのはアメリカだった。日本は西洋を教師と崇め衣食住全てのことを学び、技術のみならず文化も積極的に吸収していく。そんな状態で20世紀のほとんどが過ぎていく。西洋から見たアジアは常に下の位置にいた
大げさなようだが、そんな位置関係がいまだに尾を引いているのだと私は思っている。現在、アジアと西洋の位置関係が少しずつ変わりつつあるのはもちろん分かっている。だが現在の私達も、19世紀から20世紀へと流れてきた歴史の延長線上にいることも事実なのだ。そんな昔の感覚を、アジア人の私達も西洋人も未だに無意識に引きずっているとしても不思議ではない。


無理もないのだ。彼等西洋人には、アジアに興味を持つだけのきっかけも理由もこれまでに一切無かったのだから。知らないから想像するだけ。行ったこともないし、興味も無いアジアの国々。SUSHIを食べても、Wiiで遊んでもそこに日本人の顔は見えない。見る必要がないからだ。

日本は20年以上も前から、車も精密機械技術も学力も日常の便利さも、いろんなところで西洋を追い抜いてきたのに、西洋の一般人がそんな事を知ることはなかった。新聞や雑誌の記事で理解はしても、現在の日本がどれだけ様々な分野で進歩しつくしてしまっているのか、実感が出来ないのだ。
西洋に住む彼らの多くは、現在の中国の上海が近代的な大都市に変わっていることを知らない。ソウル、クアラルンプール、香港、シンガポール、バンコク、ホーチミン市…、そんな様々なアジアの都市で、最新のファッションに身を包んだ綺麗な女の子達がハイヒールで街を闊歩している事を彼らは知らない。知るはずも無い。興味が無いからだ。だからそんな西洋人の(彼らが長い間思い込んできた)アジア人に対する見方を変えることは非常に難しい。

そう考えれば、そんな状況で西洋人にアジア人を憧れの存在として、人気商品(ポップスター)として売ろうとしても、それがいかに難しいかが解ってくると思う。





2012年6月24日日曜日

日本人はスーパースターになれるのか-8

--西洋におけるアジア人の芸能活動への考察




なぜアジア人は苦戦するのか -2--------------


8-●アジア人の立ち位置1 保守的な西洋人達

アジア人(それにヨーロッパ人を含む外国人)がアメリカのショービジネス界で苦戦する第1の理由は、この国の白人層が驚くほど保守的だということだろう。保守的とは、自分達の文化、社会、宗教、習慣、食生活その他様々な事に大変満足して、それが自分達の幸せのあり方だと信じて疑わないこと。そのため異文化の導入による刺激の必要性を全く感じない生活を送っているということだ。


仮に異文化に興味を持つとすれば、彼らの目はまずヨーロッパに向けられる。彼らの目には、同じ英語を話すイギリスでさえ憧れの異国だ。イギリス訛りもちょっと頭がよさそうに聞こえたりする。イタリアは情熱の国、フランスはおしゃれな国…そんなヨーロッパの国々に憧れる人は一部いる。それでも、わざわざイタリア語を学んでローマに住んでみたいと思う人はめったにいない。統計は知らないが、わざわざイタリアン・ポップスやフレンチ・ポップスを聴く人も少ないのだろう。


自分達のルーツであるヨーロッパでそれなら、訳のわからないアジアなんて興味さえ無い人がほとんどだ。彼らは寿司を食べ、TOYOTAの車を運転し、SONYのテレビを見、UNIQLOを着て、YAMAHAの楽器を演奏し、彼らの子供達は Wiiで遊ぶ。 しかし彼らの中に、こういうものを使いながらそれらが「憧れの国日本で作られたもので、そんな素晴らしいものを作っている日本人とお友達になりたい」などと思う人はまずいない。


これは第二次大戦以降、いや明治維新の頃から日本人がいかに欧米(異文化)に憧れの目を向け、その全てを良きものとして受け入れてきたかを考えれば、非常に対照的だということがわかるだろう。日本人が西洋に住んでみて一番驚くことは、私達が長い間西洋(異文化)に対して非常にオープンであったのに対して、西洋にはそのような習慣や考え方が一切無いということだ。これは人種差別などというものではない。大雑把に言えば、彼らはただ異文化に興味が無いということだ。


もう今の若い人たちはそんなことを知らないかもしれないが、日本には70年代ぐらいまで、舶来品=高級品という意識があった。当時はまだまだ西洋は憧れの国。1ドルのレートも何百円もして海外旅行は一般的ではなかった。海外は文字通り憧れの遠い国だっだのだ。広告でも雑誌でも、モデルは全てが白人。ハーシーのチョコレートが明治や森永やロッテ(当時は日本の会社だと思っていた)のチョコレートより不味くても、それがアメリカ製だというだけで有り難がっていた。トヨタの車がアメリカで売れていた頃、日本人にとってアメリカやヨーロッパ製の車は憧れの存在だったのだ。そんな頃に流行っていたアメリカのビルボードチャートのヒット曲のレコードは日本でもよく売れていた。そんな風に私達は西洋の文化を常にオープンに受け入れてきた。


そのような異種文化に対するオープンさは、ヨーロッパやアメリカには存在しない。それが、アジア人が西洋で苦戦する第1の理由だ。