(ニーチェの本は読んでません 😳)
国が壊れていくとはこういうことか。
以前は…例えば大統領選前のディベートを面白がって候補者に点数を付けたりしていたけれどもうできなくなった。昔の文章も全て消した。私は緑色のカードがあるだけの外国人なので今は危険を冒すわけにはいかない。静かに潜んで世の中の様子を見る。
様々なことがやりきれない。遠くの場所で起こっている戦争。自分のことだと感じれば心がもたない。だから現実から自分の心を切り離して傍観するしかない。でなきゃ苦しくなる。去年からもうずっと苦しいことばかり。だから深く考え過ぎない。
それでも情報は知りたいから『NewsNation』のエリザベス姉さんとクオモを見て毎日情報だけは仕入れている。今はとにかく世の中で何が起こっているのかを見ておこう。できるだけ片方に寄った考えはしたくない。「中庸」を常に頭の隅に置いておく。エリザベス姉さんとクオモの番組ならそれほど嫌な気持ちになることはない。
ただ彼等の番組に出てくる…🐙酋長の側の人々の言葉を聞くと絶望させられることもある。昨日は80歳を過ぎた元軍人(🐙側)が番組に出てきて「昔ローマ人がカルタゴ軍を壊滅させたときのように我々もやるべきだ」などと言っていた。このような好戦的ジジイが大きな声を上げている限り世界の平和は望めないと思う。
そもそも突然の攻撃は大問題。しかしそれをおかしいと思う国民の数がまだまだ足りない。田舎町にインタビューに行けば「平和のためにはしょうがない、攻撃しなきゃ我々が攻撃される。🐙親分はいいことをやっている」なとど真面目な顔で話す男達もまだまだ多い。彼らは物価が上がっても保険が無くなっても平気らしい。不思議ですね。生活が苦しくなるはずなのに。
…だから私は絶望している。この状況は国民が選んだもの。問題は一般の人々の心の中にある。この国は変わらない。
強い国、大きなこの国の倫理(守るべき善悪・正邪の判断基準)のスタンダードになぜ私がここまで違和感を感じているのか?日々ニュースを見ていて少しずつ解り始めたことがある。考えがまとまるにつれて「私が理解できないのはしょうがないのだ」と思うようになった。…そもそも私は、こことは違う文化圏のアジア/日本で育って、私の頭の中にはこの国の倫理や常識を理解できる文化的/歴史的なベースが無いのだと。そのことを書いておきたいと思った。
日本人の私が一番理解できない西洋の倫理のベースは「世の中を善と悪に分ける考え方」なのだと思った。
ニュース番組で様々な政治家や論客のインタビューを見ていて、右派と左派に関わらず彼等の意見に私が度々首を傾げてしまうのは、彼らが世の中を善と悪に分けて見ていること。私が彼らの言葉から大まかに感じるのは「敵は悪い奴らだから(正義の)我らがやっつける…成敗する。だからこの戦争は正当なのだ」という理論。
彼らが言うところの…「疑わしい敵/まだ攻撃していない敵」に対して「将来我が国が攻撃を受けないためにその敵を今攻撃する」その行動のベースには「善が悪を征する」考えが元にあるのだと思わずにはいられない。
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…ここでまず断っておこう。仮に自分の国が侵略された場合に防衛のために戦うことは「善が悪を征する/征伐する/討伐する」とは意味が違う。それはあくまでも防衛で国にとっては必要なことだと思う。私は武力を完全に手離すことを良しとする平和主義者ではないと思う
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少なくとも私が思いつく限り日本にはこの「善が悪を征する」の考え方は無いと思ったがどうだろう?
日本の過去…奈良・平安時代につくられた「征夷大将軍」は確かに「夷を征する将軍」の意味だが、その「夷」の意味の中に「悪だから」という考えはなかったのではないか。それ以降の日本の戦乱の時代は個々の武家同士が勢力争い(経済的に有利に立つために土地を奪い取るための戦)をしていたのだと思われるが、日本の歴史には「善が悪を征する」考えは無かったのではないか。織田信長が比叡山を焼いた時も石山本願寺と対決した時も、それらは勢力争いの一つだったわけで、そこに「善が悪を征する」というアイデアがあったわけではないだろう(よくドラマではそのように描かれているけれど)。
日本にはそもそも「善が悪を征する」アイデアがないのではないか?
今回「悪」の定義を調べてみたが必ずしも「一神教の考え方というわけでもない」らしく、さて一体この大きな国の「俺たちが悪を成敗する」アイデアはどこから来たのかと考え調べてみた。
西洋の正義の歴史
必ずしも「一神教の考え方ではない」とは書いたけれど…、私は西洋には元々「正義が悪を征する」アイデアは存在していたのだろうと思った。それは西洋の国々が近隣の国同士で常に戦っていた地理的な条件によるものも大きいだろうし、そこにキリスト教による「神による正義が悪を征す」考えが加わってより強いものになっていったのだろうと思った。
他民族からのヨーロッパへの侵略はほぼ全て「悪」とされるのが西洋の歴史の描き方
欧州は紀元前3世紀のマケドニアのアレキサンダー大王を「Alexander the Great」などとグレートまでつけて英雄としている。しかし侵略されたペルシャ側はアレキサンダー大王を悪の侵略者と呼んでいたらしいことを今回調べて知った。一方の英雄も相手にとっては悪の大王になるのは当然のこと。
その後(キリスト教が欧州に広まった後の)欧州内のキリスト教の国同士の戦争はただ「国同士の勢力争い」とされたが、同じ勢力争いでも相手が異教徒になると敵は「悪」になった。
5世紀のフン族の欧州への侵攻はキリスト教の信者から「神の災い」と呼ばれた。また(13世紀にユーラシア大陸に勢力を拡大した)モンゴル帝国の西洋での印象は「悪」…今でも西洋人がモンゴル帝国の拡大を「Mongol devastation/」などと呼び忌み嫌うのは珍しいことでない。
ここで欧州が異文化/異なる宗教/異なる民族を相手に、また時にはキリスト教徒同士でも戦った「正義のための戦争」は、常に欧州の歴史と共にあったとしてもう少し調べてみた。
イベリア半島で8世紀から15世紀まで続いたイスラム教徒とキリスト教徒の戦いレコンキスタ。そして12世紀に始まる十字軍はその最たるものだろう…西欧カトリック諸国が異教徒イスラム教国からの聖地エルサレムの奪還のために200年をかけて行った勢力争い。そこにキリスト教側からの「正義が悪を征する」アイデアがあったことは否めないだろう。その後も欧州キリスト教国は16世紀に最大に拡大したオスマン帝国と長い間戦い続けた。
また17世紀の欧州でキリスト教徒がカトリックとプロテスタントに分裂して戦った30年戦争には「正義と悪」のアイデアがあったのだろうか。それぞれの側が自らを正義と思っていたことは間違いないだろう。
さあその後はなんだろう? 19世紀の欧州による世界各国の植民地支配だろうか。19世紀にインド、南米、北米、アフリカ、アジアに至るまで…欧州が帝国主義的侵略を行った歴史は、当時のダーウィニズムによる「弱肉強食」「適者生存」の原則をもって正当化され、結果「(西洋の)正義が悪(異教徒)を征する」ことを謳いながら、欧州は遠方の土地を征服、獲得、搾取し経済的な利益を得た。
そしてそれらの19世紀の欧州勢力による植民地の拡大は、結果… 欧州人は「より進化した」人種であり、有色人種(被支配民)は「劣等」であるという人種差別の思想を生み出したとも言われている。(←最悪ですね)
欧州(英国)は(植民地獲得のため)北米大陸に勢力を拡大。初期の移民の主な構成は宗教迫害を受けたプロテスタント信者、新天地を求めた農民、毛皮商人などだが、彼等も「正義と悪」のアイデアで侵略を正当化させている。キリスト教徒の移民はあくまでも正義、そしてネイティブ・アメリカンは征すべき異教徒であった。また英国はオーストラリアも同じように侵略した。
「欧州人を優秀だと見なし有色人種を劣等であるとする考え」は、彼らによるところの「善/正しい者が悪を征する」行動をますますエスカレートさせた。第二次大戦中のドイツのユダヤ人への迫害はまさに同じ思想によるものだし、その後「悪」のドイツを「正義である米国」が成敗し、またアジア側では「正義である米国」が「悪」であった日本を、核を落として成敗したとされている(←私が米国人の一般的な認識だと個人的に感じた印象です)。
今どきの欧州の国々には「正義が悪を征する」意志でよその国を爆撃する国はないだろうと思う(ロシアのウクライナ侵攻は一個人の野望によるものだと私は見る)。
しかしどうやら米国は今でも継続して「正義が悪を征する」アイデアで動いているようだ…今の世の中の動きを見ているとそのことを日々感じずにはいられない。
欧州の国々では第一次、第二次世界大戦中に様々な都市が爆撃を受けている。だから欧州の人々には「戦争がどういうものなのか」の具体的な認識があると思われる。しかし米国は土地を外国から攻撃された経験がない。そのためなのだろうか、米国には「戦争」や「他国を攻撃する」ということに対して驚くほど軽々しく正当性を口にする人が少なくない。
そのことに私は賛同するつもりはない。
遠く離れた中東の国が核を撃って(欧州を飛び越えて)まず米国を攻撃してくると考える人々…「だからこの戦争は正しいのだ」と主張する人々のことを私が理解することは一生ないと思う。誰にでも銃の携帯を許しながら「いつ撃たれるかわからないから銃を持った警備員を小学校に配置しろ」という人々の主張を理解するつもりもない。国民全員に銃を持たせる前にもっとやることがあるだろうと思う。
そのようなことをとりとめもなく…今世の中で起こっていることを憂いながら考えた。
私は一方的な暴力を正当化する側には立たない。
そして今は暴力を正当化する人々の非難もしないつもりだ。ただ彼等と同じ場所にいたいとは思わない。自分をそのような人々から切り離したい。そのような人々とは知り合いになりたくない。私は昭和の日本の平和教育で育った人間だから「攻撃は正義だ」という考えを持つことはない。それを信じる人々は私とはあまりにも考えが違い過ぎるから…彼等とは議論をしようとも思わない。意味のない「喧嘩」の土俵には上がらない。
世の中は「正義と悪/白と黒」で綺麗に分けられるほど単純なものじゃない。人間とはそもそも曖昧な存在だ。「正義と悪」も普遍的な固定概念ではなく、時代、文化、状況によって変動する相対的なものだ。曖昧だからこそ「反発し合う者」同士の話し合いも可能になるのに、この大きな国には不必要に「正義と悪/白と黒」をはっきりさせたがる人が多過ぎて息苦しくなる。
個人的には(遠方だが)ペルシャ人の友人もいる(私は中近東のご飯が大好きだ!)。以前からユダヤ系の旦那Aの友人は多くいるし、近年イスラエル人とも新しく知り合いになった。英国にいる時は多くの中近東の人々やインドの人々、アフリカ系の人々、アジアや南米の人々と知り合いになった。30年前の語学学校では同じクラスにロシア人とウクライナ人…そして数々の欧州や南米、アジア、アフリカの国々の若者達と机を並べて一緒に英語を勉強した。ここハワイではアジアの大国の人々とも数名知り合いになった。以前出会った日本の隣の国の人もとてもいい人だった。この土地には沢山の親切で真面目で誠実な各アジア系の人々がいる。旦那Aはプロテスタント、友人はカトリック、皆いい人、親切な人々。私は私が出会った人々をまず信じたいと思います。皆が無事でありますように。世界が平和になりますように。