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『三度目の殺人(2017年)/日/カラー
/124分/監督:Hirokazu Koreeda』
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・映画『三度目の殺人/The Third Murder』(2018):2回目鑑賞 改めて謎解き+映画の主題とは
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(劇中での台詞のように)「目の見えない人々が象に触って、それぞれが違うこと(耳とか鼻とか)を言う。皆自分が正しいと主張する」ような話なのかと思った。煙に巻かれる。黒澤明監督の『羅生門』のようなものか…。実際は、殺人犯三隅(役所)の二転三転する供述で状況がコロコロ変わる話なのだけれど。
それでもきっと最後は、大どんでん返しで真実が語られる…類の映画だろう。ポール・ニューマンの『評決』とか、マレーネ・ディートリヒの『情婦』とか…そいういう映画かとも思った。
そんな風に半分くらいまで見て「この映画は裁判ものだから、真実(真犯人)を予想すればいいのね…」と、推理小説を読むように見続ける。…それ、私得意。
アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』も『アクロイド殺し』も、種明かしの前に答えがだいたいわかった。推理ものは小説でも映画でも、種明かしを想像しながら見る。この映画もそういう趣旨のものだろうと思って見続けた。
そしたら、なーんと違ってましたね。
結果はもやもや~っと終わる。15年以上前のクリント・イーストウッド監督のもやもや映画のような感じ。ちょっとびっくり。…で?誰?真実はなに?
見た人がそれぞれ真犯人を考えるようなものですか。それにタイトル『三度目の殺人』の殺人は誰が死ぬのか?…の答えも…まぁそういうことなのだろう…。
というわけで、ほぼ想像の海亀ネタバラシ↓(違っているかも知れない)
★大いにネタバレ注意↓
(しかし謎解きは映画の趣旨ではないのだろう)
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※追記:
映画を2回目に見たら解釈を間違っていた点がでてきたので修正した
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所謂、推理モノ映画らしい答えなら…犯人は
それから咲江の脚の問題は、実は彼女がもっと小さい時からの虐待…もちろん犯人は父親。彼女が14歳になった頃に虐待が性的なものに変わったのだろう。この
私がそう思った場面は、留置所の三隅が重盛に「生まれてこなければいい人がいる」と言ったところ。もちろんその人…とは殺された被害者…「あ~これは娘との関係だわ。虐待かな」と思った。そしたらやっぱりそんな話が出てきたので、
三隅はなぜ黙っている? …もちろん咲江ちゃんを守るため。
しかし問題はそこから。
咲江ちゃんが決心して事実を話そうとした最後になって、三隅が突然「俺はやっていない」といい始める。ぇえええええ????????混乱する。
そして裁判のやり直しは裁判官や弁護士にも不都合なので、そのまま裁判を進めよう…ということになる。ええええええええ? (もしやり直すことになったら?)
三隅の「俺はやっていない」の証言は己の罪を免れる為の嘘だと受け取られたのか(そういえば母親の保険金の話も嘘だった)、結果…死刑が宣告される。ぇええええええええええ?
そんなイイカゲンなやりかたで死刑が決定するのですか?
というわけで「三度目の殺人」とは、三隅が死刑の判決を受けること。
うー…そうなのか…。司法のことはよくわからないので反論も出来ないのだけれど、どうもすっきりしない。詰めが甘くない? もし咲江があの場面で「私がやったんです」と叫んだらどうするの?
このもやもやとした違和感とは…、
①
最初は「誰が犯人?真実は何?」と思いながら見続けて、いつか種明かしがあるものだろうと思っていたら、最後まで答えはもらえず、
②
タイトルの「三度目の殺人」の三度目とは、三隅が(裁判の流れで)真犯人かどうかも解明されないまま死刑の判決を受けてしまう…ということですかね。大きなシステムの都合で犠牲になってしまう人の話? 突然社会的な問題提議?
③
しかしそれなら詰めが甘くないか? そういえば三隅の「器」の意味もよくわからなかった。三隅はどうせ死ぬつもりだから真実なんてどうでもいいということか?
①のつもりでず~っと見てきた視聴者が、突然②の政治的なお題を突きつけられて肩透かしを食ってしまう。その割に③詰めが甘い。これがこの映画がもやもや~とした印象になってしまった理由…これでいいのか?
三隅に優しい心があるのだろう…ということも最後にちょっとわからなくなって…そこも混乱。カナリアを外に放てば寒さで死ぬだろうから殺す…のは優しさなのか。しかし最初の1羽は逃がしたとも言う。これも混乱。←よくわからない。たぶん何か見落としている。おっと…「生まれてこなければいい人がいる」というのは彼自身のことを言っているようにも聞こえますね。
なんだか色々と謎も多そうですね。まだよくわからない。これは、結果をわかった上で、もう1回見たほうがいい映画なのかも。しかし地味。録画をちょっと保留しておこう。
しかし三隅はこのまま死刑にはならないと思うのですが、どうでしょう?
『情婦』や『評決』のどんでん返しも無く、アガサクリスティー風「誰がやった?」の答えももらえず、象の話や『羅生門』のように複数の視点から真実を語る面白さが主旨というわけでもなく、ちょっと前のイーストウッド監督の映画のようにエンディングはもやもやと煮えきらず、もしかしたら社会的に(真実を問われることなく)犠牲になってしまう個人を扱った問題提議の映画…しかし詰めは甘い…だから混乱する。
うーん…もう1回見たほうがよさそう。福山さんの重盛は、あの判決では満足しないだろうし、咲江ちゃんも三隅が死刑になったら一生苦しむと思うのだけれど、どうなのだろう?あのまんまだとは思えないのだけれど。