このインタビューは、元々米ニューヨークの衛星/オンライン・ラジオ局 SiriusXMのために行われたもの。それがあまりにも素晴らしいインタビューだったのでもっと多くの人に見てもらいたい…とケーブルチャンネル・HBOでの放送になったそう。80年代から有名なラジオのプレゼンター、ハワード・スターン氏によるブルース・スプリングスティーンのインタビュー。全編2時間以上におよぶ大変親密なインタビュー。
最高のインタビュアーは、対象の人物のファンである
そのことを強く感じた2時間。
Howard Stern氏は今年68歳。ニューヨーク市生まれ。そしてロックの巨人Bruce Springsteen氏は今年73歳、ニュージャージー州Long Branch市の出身。 お二人は5歳違い。どうやらハワードさんは同じニューヨーク近郊のロック・スター、ブルースさんの長年のファンだったらしい。ファンとしてブルースさんの長年に渡るキャリアと作品をよく知っているので、そのためインタビューの内容が濃い。親密。ファンじゃなきゃ聞けないような深い内容ばかり。だからとても面白い。
私はこのインタビューで初めてフルースさんの本当のお人柄を知った。今まで私はブルースさんがどういうお方なのか全く知らなかった。
男臭く汗臭く、マッチョで男気溢れ、苦悩する若者の心、労働者の心を歌う…あのアメリカン・ロックのレジェンド…は、実は傷ついた心を抱えた繊細な詩人だった。こういうお方だとは知らなかった。驚いた。私が思っていた印象とはまるで正反対の人。
インタビューの最初から、ブルースさんのほんの少し居心地が悪そうな様子、言葉もスムースに出てくるわけでもなく少し照れているようで、度々目を閉じて言葉を選びながらお話になる様子を見て「あれ?」と思い、また一方あの(以前は品のないことで悪名高かった)ハワードさんが、彼の大好きなスターを目の前に(いち)ファンになって嬉しそうにしているのを見て、これは面白いインタビューだろうと思った。
インタビューが進むうちに少しずつ理解していく。…あの(男臭くマッチョな)ブルース・スプリングスティーンが、実は(マニアックなほど)細部にこだわる完璧主義の職人的アーティストで、その心はまるで傷ついた若者だったことを。
インタビュー全般に何度も顔を出す、ブルースさんと父親との関係。
彼はイタリア系の母親には愛されたが、オランダとアイルランド系の父親には愛されなかった(と彼は言う)。彼の母は彼に「あなたは最高よ」と言い、工場勤務の父は飲んだくれて「お前は何者でもない」と息子を否定する。彼は父親に拒絶されたことで傷つき、それでも父を理解しようとした。そして生まれたのが、人々が「アメリカの魂」だと呼ぶ作品の数々。
ブルースさん御本人は工場で働いたこともないし、労働者になったこともない。しかしなぜ彼が労働者…多くの東海岸から中西部の白人米国人男性の琴線に触れる曲を書いたのか…それは、彼が労働者だった父親の人生のストーリーを歌詞に書いたことによるものだった。
ブルースさんはクリエイターなので、彼の「作品」をフィクションとして、またストーリーとして創作する。彼の書く多くの歌詞は、そのような彼の父親との関係や、彼の壊れた家庭での育ちから、(大学に進んで就職するような)所謂まっとうな人生を歩まなかった経験などから生まれている。
また彼は父親から愛を受け取らなかったために、人を愛する方法も最初はわからなかったと言う。
32歳に最初の結婚をし、そして離婚。その頃に心理療法士によるセラピーにも通うようになる。「ブルース・スプリングスティーンが心理セラピーに通った???」…と驚く。
そして後に彼はバンドのメンバーのパティさんと結婚。そして幸せな家族を作ることができた。彼女と出会ったことで彼の生活は落ち着いたと言う。
以下大まかな内容…
彼の仕事に対する姿勢はイタリア系の母親の影響が多い。南イタリア系だから音楽が身近にあった。そして、勤勉で完璧主義な姿勢はイタリア系の母親のカトリック教からの影響で、常に完璧を求めて常に精進を重ねるのが癖になっている。その癖のようなものを彼は宗教的なrituals(儀式)のようなものだと言う。
毎晩3時間以上のライブをやって、その後ホテルに帰ってから「あれはダメだった。もっとこうすればよかった」と一晩中悶々として「今度こそはしっかりやろう、もっとがんばろう」と翌日のライブまで思い続ける。…なかなかそんな性格も大変だろう。
バンドのメンバーとスタジオに籠って、たった一つのフレーズを録音するために15時間、16時間をかけることもあった。 …バンドの方々は大変である。
そして彼は過去を振り返る。最初エルビス・プレスリーに憧れたけれど、あまりにもエルビスが凄すぎるので一旦ギターを諦めた。それでも後に14歳で英国のビートルズなどに影響され、もう一度ギターの練習を始める。数えきれないほどの曲を耳コピをしてギターを練習。おばさんの家のピアノを借りてピアノを練習。そして2年以内にはステージに立つようになった。それが1964年頃。
デビッド・ボウイが『Young Americans』のレコーディングでブル―スさんの曲を2曲レコーディングしたいと言ったのでフィラデルフィアまでバスに乗って会いに行った話。ボウイがカバーしたのは「It’s Hard to Be a Saint in the City」と「Growin’ Up」。アルバムには収録されなかった。
E Street Bandのサックス奏者クラレンス・クレモンズさんが2011年にお亡くなりになったことも初めて知った。最後の時間にブルースさんは彼のベッドの横で「Land of Hope and Dreams」を歌ったそうだ。
彼の前回の大きなツアーは2016年―2017年の『The River Tour』。その後、2017年―2018年にはニューヨークのブロードウェイで彼が彼の曲を歌うミュージカルに出演。全部で236回の公演を行ったそうで、御本人も楽しんだらしい。
彼のライブは長い時間を演奏することで有名。調べたら、前回2016年の『The River Tour』でのセットリストは34曲。今でもお元気で73歳には見えない。実はお酒もタバコもやらずストイックな方らしい。
最新のアルバムはカバーソング集『Only the Strong Survive 』
来年2023年には米国と欧州を回る大掛かりなツアーが決定している。
映画監督のマーティン・スコセッシが言った言葉
「アーティストの仕事とは、自分のこだわり/obsession―に対し、聞き手(audience )に興味を持ってもらうようにすること」
ハワード氏が聞いたブルースさんの言葉
「私のキャリアとは、一生をかけた私のファン/観客(audience)との会話だ」
ブルースさん自身が昔から変わったこと(落ち着いたこと)に関し「変わらなければ子供も家庭も持てなかっただろう」「信じられる人間になれたか、責任をとれる人間になれたか。若い頃は(父親との関係から)迷っていて無責任だった」
「ロックスターのエゴは家庭には持ち込まない。子供たちは親をヒーローだと思う必要はないから。彼らは彼らのヒーローを見つければいい」
73歳の彼はロックスターの浪漫を否定する。
「ロック的な死のカルトはロマンティックなものだったけれど、まともな人生を築いていこうとするにはゴミだね」。過去にはブルースさんの世代で「生き急いだアーティストたちを沢山見てきた。彼らはあのように生き急ぐことはなかったのに」と言う。
スターン氏が「昔は音楽が何よりも大切なものだったが、ロックはもう終わりだね」と言えば「今はあの頃「ロックの黄金の時代」のような時代ではない。今の時代は変わってしまった。それでも今の人達は今のやりかたで音楽をやっている」
ブルースさんの父親が亡くなる前の話。勝ち取ったオスカー像を父親の目の前のテーブルに無言で置いたら、父親は「もうお前に二度とああしろこうしろとは言わないよ」と言った。
歌を書くことで父親に近づこうとした。
I sang his song. You become him. That the way how you get close to him. I sing about his life. I cannot get your love, I’ll be you. I become you. And I will be close to you.
(私は父の歌を歌う。そして父になる。そのようにして父に近づこうとした。父の人生を歌う。もしお父さんに愛をもらえないのなら、私はあなたになろう。あなたになってみよう。そうすればあなたに近づける。)
とにかく一番の大きな驚きは、あの男気の塊のようだったブルース・スプリングスティーンが、
「父からの拒絶にとても傷ついて、若いころは自分の人生をおろそかにしかねなかった。それでも父の愛を求め、父を理解したいと、父になりたいと…父の世代の人生を詩に書いた。自分の創作の原点は、存在の薄かった父を求め、父を理解しようとしたことであった。若いころは間違ったり迷ったりすることもあったが、心理セラピーを受け、奥さんパティさんに助けられてここまできた」
それを語るブルースさんは73歳。
インタビューがなぜそのような話になったのか…インタビュアーのハワードさんも父親とわかり合えなかった経験を持っていたから。お二人とも父親に関して同じような経験をしていたそうだ。
それにしても68歳と73歳。親の影響とは大きいものだと思う。彼らは70歳になってまで父親の愛を受けられなかったと話す。 このような「父と息子」の話は、二つの大戦が終わり、自由を求め反逆の世代だと言われた(彼ら)ベイビー・ブーマーには特に多い話なのかもしれない。あれだけそれぞれの分野で成功したスーパー・スターのお二人が「父親の愛が欲しかった」と言っている。…考えさせられる。
映画監督のマーティン・スコセッシが言った言葉
「アーティストの仕事とは、自分のこだわり/obsession―に対し、聞き手(audience )に興味を持ってもらうようにすること」
ハワード氏が聞いたブルースさんの言葉
「私のキャリアとは、一生をかけた私のファン/観客(audience)との会話だ」
ブルースさん自身が昔から変わったこと(落ち着いたこと)に関し「変わらなければ子供も家庭も持てなかっただろう」「信じられる人間になれたか、責任をとれる人間になれたか。若い頃は(父親との関係から)迷っていて無責任だった」
「ロックスターのエゴは家庭には持ち込まない。子供たちは親をヒーローだと思う必要はないから。彼らは彼らのヒーローを見つければいい」
73歳の彼はロックスターの浪漫を否定する。
「ロック的な死のカルトはロマンティックなものだったけれど、まともな人生を築いていこうとするにはゴミだね」。過去にはブルースさんの世代で「生き急いだアーティストたちを沢山見てきた。彼らはあのように生き急ぐことはなかったのに」と言う。
スターン氏が「昔は音楽が何よりも大切なものだったが、ロックはもう終わりだね」と言えば「今はあの頃「ロックの黄金の時代」のような時代ではない。今の時代は変わってしまった。それでも今の人達は今のやりかたで音楽をやっている」
ブルースさんの父親が亡くなる前の話。勝ち取ったオスカー像を父親の目の前のテーブルに無言で置いたら、父親は「もうお前に二度とああしろこうしろとは言わないよ」と言った。
歌を書くことで父親に近づこうとした。
I sang his song. You become him. That the way how you get close to him. I sing about his life. I cannot get your love, I’ll be you. I become you. And I will be close to you.
(私は父の歌を歌う。そして父になる。そのようにして父に近づこうとした。父の人生を歌う。もしお父さんに愛をもらえないのなら、私はあなたになろう。あなたになってみよう。そうすればあなたに近づける。)
とにかく一番の大きな驚きは、あの男気の塊のようだったブルース・スプリングスティーンが、
「父からの拒絶にとても傷ついて、若いころは自分の人生をおろそかにしかねなかった。それでも父の愛を求め、父を理解したいと、父になりたいと…父の世代の人生を詩に書いた。自分の創作の原点は、存在の薄かった父を求め、父を理解しようとしたことであった。若いころは間違ったり迷ったりすることもあったが、心理セラピーを受け、奥さんパティさんに助けられてここまできた」
それを語るブルースさんは73歳。
インタビューがなぜそのような話になったのか…インタビュアーのハワードさんも父親とわかり合えなかった経験を持っていたから。お二人とも父親に関して同じような経験をしていたそうだ。
それにしても68歳と73歳。親の影響とは大きいものだと思う。彼らは70歳になってまで父親の愛を受けられなかったと話す。 このような「父と息子」の話は、二つの大戦が終わり、自由を求め反逆の世代だと言われた(彼ら)ベイビー・ブーマーには特に多い話なのかもしれない。あれだけそれぞれの分野で成功したスーパー・スターのお二人が「父親の愛が欲しかった」と言っている。…考えさせられる。
私は今までブルースさんの音楽に惹かれたことはなかった。というのも彼の「曲」は音楽と言うよりも詩にメロディを加えたものだろうと思っていたから。私は音楽聴きで詩を味わう人間ではない。それに以前は英語がわからなかったから彼の詩の良さもわかるはずがなかった。世代的にも彼は少し上の世代のアーティストに思えたし、わざわざ掘り下げて聞こうともしていなかった。このインタビューでも、ブルースさん御本人が「私の歌は4コードの歌」だとおっしゃる。
しかし彼の「曲」は、スタジオでアコースティックのギターの弾き語りで聴けば、確かに味がある。心に響く。音も綺麗だと思った。そして彼の「音楽」が、実は何十時間も手を入れて完璧を求めた音の職人の作品であることも今回初めて知った。それを確かめてみたいと思った。
今なら英語がわかる。アメリカの東海岸辺りのことも少しならわかる。もしかしたらブルースさんの書く詩も少しなら理解できるようになったかもしれないとも思う。動画サイトで少し聴いてみたら、初期のアルバムの響きは初期のデビッド・ボウイのようだった。もっと聴いてみようか。
余談を書く。
1985年の4月、ブルースさんが初来日した。Born in the U.S.A Tour。場所は国立代々木競技場第一体育館。
1985年の4月、ブルースさんが初来日した。Born in the U.S.A Tour。場所は国立代々木競技場第一体育館。
チケットの発売日は1月か2月あたりだったと思う。当時のチケット購入はチケットぴあの電話予約が一般的だったが、当時ブルースさんは「Born in the U.S.A」のヒットで大変な評判。普通の方法ではチケットが取れないだろうと思った。女友達6人ぐらいと一緒に、なんとしてでもチケットを取ろうと話し合った。チケットの発売日の前日に銀座の山野楽器のチケット売り場に徹夜で並ぼうと決めた。冴えない女子学生ばかり、八王子からわざわざ銀座まで出てきて発売前日の夜9時頃から店の前に並んだ。店の外には私達以外にも他の学校の暇な大学生達が並んでいた(案の定)。
その夜は寒かった。一晩中震えながら、時々近所のダンキンドーナツにコーヒーを買いに行って暖をとった。誰かがどこかから段ボールを拾ってきた上に座ったりもした。日が昇ったら友人の一人が熟睡していた。そして朝10時だったか、山野楽器が開店。さっそく全員それぞれ1枚づつチケットを購入して満足。その後、徹夜明けのまま皆でナイルレストランに歩いて行ってランチを食べた。
そして来日当日の4月。席は思ったよりステージから遠かった。それでも人の頭の間にブルースさんの大きな顎とむき出しの大きな腕が見えた。E Street Bandと共にブルースさんが出てきたら6人並んだ女全員でギャーギャー叫んだ。ぎゃーブルース!ぎゃぁ~~~~!ぎゃーっ腕~!と皆で狂ったように騒いだ。そしてこぶしを振り上げ「アメリカに生まれた~」と皆で一緒に歌った。もちろんブルースさんの歌はそれしか知らない。深刻な歌詞の内容も知らなかった。私達の誰一人としてブルースさんのファンはいなかった。それでもライブでは奇声をあげ手を叩き身体をゆすり飛び上がってみんなで騒いだ。楽しかった。
その夜は寒かった。一晩中震えながら、時々近所のダンキンドーナツにコーヒーを買いに行って暖をとった。誰かがどこかから段ボールを拾ってきた上に座ったりもした。日が昇ったら友人の一人が熟睡していた。そして朝10時だったか、山野楽器が開店。さっそく全員それぞれ1枚づつチケットを購入して満足。その後、徹夜明けのまま皆でナイルレストランに歩いて行ってランチを食べた。
そして来日当日の4月。席は思ったよりステージから遠かった。それでも人の頭の間にブルースさんの大きな顎とむき出しの大きな腕が見えた。E Street Bandと共にブルースさんが出てきたら6人並んだ女全員でギャーギャー叫んだ。ぎゃーブルース!ぎゃぁ~~~~!ぎゃーっ腕~!と皆で狂ったように騒いだ。そしてこぶしを振り上げ「アメリカに生まれた~」と皆で一緒に歌った。もちろんブルースさんの歌はそれしか知らない。深刻な歌詞の内容も知らなかった。私達の誰一人としてブルースさんのファンはいなかった。それでもライブでは奇声をあげ手を叩き身体をゆすり飛び上がってみんなで騒いだ。楽しかった。
あ、そうだ「Hungry Heart」「The River」と「Dancing in the Dark」は知ってたな。あれで踊った。