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2023年6月26日月曜日

映画『さよならゲーム/Bulls Durham』(1988):男目線の古クサい野球浪漫・女性の描き方が古い





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『Bull Durham (1988)/米/カラー
/1h 48m/監督:Ron Shelton』
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この映画のリリースは1988年。私が最初にこの映画を見たのはたぶん1990年ごろ、日本でのTV放送で吹き替えだったと思う。スーザン・サランドンの役が野球選手のグルーピーだったことだけ記憶していた。

1988年といえば、アメリカのヒットチャートではマドンナやプリンスが常連だった頃。日本はバブルの真っ只中。ニューヨークでは不動産王ドナルド・トランプがブイブイ言わせていた頃で、アメリカも日本も色々と派手で元気がよかった時代。

監督は『White Men Can't Jump』でも知られるRon Shelton氏。1945年生まれの彼は1988年当時43歳。1950年代から70年代にアメリカに育った男なら、誰もが愛しく懐かしく思うだろう田舎町のマイナーリーグ。この映画はアメリカの中年男にとっての…彼らが子供の頃に親しんだマイナーリーグを思い起こさせる懐かしい雰囲気の映画なのだろう。 

1988年頃…アメリカの都会は騒々しく派手な時代だったけれど、田舎町のマイナーリーグには昔と同じおだやかな時間が流れていた。米国の映画界がまだまだ男の世界だった80年代後半に、男の目線のみで作られたユーモラスでノスタルジックな男のための野球浪漫おとぎ話。


実は私が1990年頃にこの映画を最初に見たときの印象は「グルーピーの話」というものだけ。当時の私は野球に全く興味がなく、メジャーやマイナーが何かもわからないほどの無知。だからマイナーリーグを描いたこの映画には「グルーピー」意外の言葉に引っかかるものが何一つなかった。

そもそも当時はアメリカのことも全く知らなかった。マドンナやプリンスを聴き米国に関するノンフィクションの本や雑誌の記事を読んでアメリカに憧れても、現実のアメリカのことなど知るよしもなし。この映画も「ふ~ん、アメリカの野球の話か…」ぐらいの薄い印象しかなかったのだろう。「アメリカの女性はさばけているな」と。「野球選手のグルーピー…彼女は自立していて自由恋愛を楽しむアメリカの強い女性なのだな、マドンナも強い女だもんな、アメリカの女性はすごいもんだね」と、どちらかと言えばポジティブな感想を持ったのだろうと思う。

今回見て、スーザン・サランドンの相手がティム・ロビンスとケビン・コスナーであることを思い出したが(私は忘れていた)、あの二人とのロマンスなら「いいですね」ぐらいは思ったかもしれぬ。あの頃の私はとにかくアメリカの女性は進歩的で自由だと感心したのだろうと思う。


今回この映画を見たのは、旦那Aがまたまた勝手にTVでの放送を録画して「見よう」と言ったから。「それグルーピーの話でしょ。あまり覚えてないけど」「僕もあまり覚えてないんだよ。まぁ野球の話だから面白いよきっと」。というわけで見始める。見始めたら私には結構退屈で「これよりも今日のMLB好プレー番組『Quick Pitch』の方が見たいなぁ」などと思ったりした。

あらためて2回目に見たこの映画はかなり時代遅れな印象。それにしてもこのグルーピー、結構年を取ってますね。スーザン・サランドンってこの時42歳?え~っ?これって40代か30代後半のグルーピーの話だったの?

一番の問題はそこ。これはただのロマンティックコメディではない。すごく色んな事情が後ろに見える。もう深読みし始めたら…なんだろうね…これ、かなり酷い話じゃないか。しかし最後はハッピーエンド。哀愁か。浪漫に哀愁。あ~そうか中年男がうるうるしそうな話か。


見終わって旦那Aは「いい映画だったね」と言う。彼は子供の頃、地元のマイナーリーグの試合を見に行ったことを思い出したらしい。ノスタルジア。中年のアメリカの男にはほのぼのとしたいい映画なのだろう。1980年代の古臭いイメージも心地よいのだろう。男にとっては「いい映画」なのだろう。懐かしい浪漫なのだろう。


しかし女のワタクシは…色々と思うところがありましたよ。というわけでそのことを書く。

若い頃に見た時と自分が中年になった今とで、これほど印象の変わった映画も珍しいかもしれぬ。
1回目にはどちらかと言えば(無邪気に)スーザン・サランドンのキャラに感心していたのに、今は…現実が見え過ぎて悲しすぎる。この年老いたグルーピー、悲惨じゃないか。男には優しいお姉さんだろうけれど。女性には…色々とキツイ映画。 

ちなみにこの映画はその年の賞取りレースで沢山賞を取っているらしい。特に(アカデミー賞を含む)脚本賞を6つも受賞している。びっくりだ。私は「うわ~台詞がクサいクサい、こんなに安っぽい台詞を言うのかね」などとあきれていたのに笑。いや~わからんな。時代が違うのか。1988年は遠くなりにけり。


これから書くことは辛口なので、映画をまだ見ていない人、純粋に楽しみたい人はお読みになりませぬよう。これは私の自分用のメモ。なぜ私がこの映画に違和感を感じたのかを書く。無粋でみもふたもない感想だと思います。

この映画の印象があまりにも前と違うということは、私があの時代からそれだけ変わったということなのだろう。

アメリカに直接関わって、今なら私にもアメリカのことが少しはわかる。年を取ったから女の生き方、女の幸せを考えてきた時間も長い。この映画の印象が前とは全く違う…つまり35年前と今の私は全く違う人間なんだね…ということがよ~くわかった。個人的にそれがすごくショックだったし面白いとも思った。



★ネタバレ注意

ストーリーは、米国ノースキャロライナ州の(実在の)マイナーリーグ・シングルA(1980年代当時)のチーム Durham Bulls のワンシーズンの話。シングルAのチームとは、メジャーから数えて5番目に位置する下位のマイナーリーグ。そのリーグの順番とは上から…

 ・Major League(メジャー)
 ・Triple-A / AAA (トリプルA)
 ・Double-A / AA (ダブルA)
 ・High A / A+ (ハイA)
 ・Single-A / A (シングルA)
 ・R / ROK (ルーキーリーグ、またはコンプレックスリーグ)

そのDurham Bullsに才能のある若いピッチャー(ティム・ロビンス)がやってきた。無邪気で陽気なその若者を地元のグルーピーのお姉さんアニー(スーザン・サランドン)がお世話する。また同チームには年を取って上リーグから下りてきた選手クラッシュ(ケビン・コスナー)もやってくる。彼は過去に21日間だけメジャーでプレーしたことがあった。映画はこの3人の関係を描く。


アニーは何よりも野球を愛する女性。近くのコミュニティーカレッジで教師をしているが、余暇には野球のために人生を捧げている。彼女は自分の意志でそのような生き方を選んだ。誰にも迷惑はかけていない。そんな彼女は毎年、若い選手をかわいがってシーズン中のお世話をする。

今の私にはこの女性アニーが大きな問題。以前(アメリカのことを何も知らずに)この映画を見たときには違和感を感じることもなく、むしろ彼女の自由な生き方に内心感心していたぐらいなのに、今彼女を見ると辛い。アメリカのことが今なら多少わかるから、表には描かれていない彼女の裏の生活も見えてしまう。あまりにも現実の悲惨さが生々しく想像できて苦しくなる。


アニーは30代後半の女性。女優さんが当時40代なのでアニーの設定もそれに近いのだろう。彼女は野球を愛し趣味はグルーピー活動…毎年若い男の子を自宅に呼んでお世話をしながら野球のこともアドバイス。そうやってシーズン中に若者を育て上げる。そしてひと夏の大人の関係が終わったら、また翌年も違う若者を見つけてお世話する。そんなことを彼女はもう20年ぐらいやっているのだろうか。

このキャラクターは監督の考える理想の女性像なのだろうか。シーズン中だけと割り切って選手のお世話をしてくれるお姉さん。彼女はシーズン後の関係を選手に求めないから後腐れもなし。若い女の子のように鼻息荒く本気で選手に結婚を迫ることもない。めんどくさくない女。若者をかわいがってくれる美しいお姉さま。この監督は、スーザン・サランドンを使って「男にとっての理想のお姉さんキャラ」をつくりあげた。

監督、ふざけんじゃねえよ…と思ったわ笑。


ほんとに男はしょーもない。1988年はまだまだ現実に男社会だったのだろうとつくづく思う。こんな自己犠牲的な女性がヒロインなんて、本当にどうしようもない映画。

なんて哀しい彼女の人生。いくら野球が好きだからって彼女はもう30代後半。マイナーリーグ野球選手の有名グルーピーの彼女の評判はそのローカルのチームの界隈にもよく知られている。同時にノースキャロライナ州の保守的な田舎町なら、彼女は近所でもよく名の知られた罪深いふしだらな女なのだろう。そんな罪深い女を心から愛してくれる男性や親しい女友達は、保守的な町にはいないのだろう。彼女は人に後ろ指さされる人生を長い間生きてきて、もう後戻りができなくなっている。しょぼい田舎町のマイナーリーグで、延々と20年間もグルーピーをやってるなんて…。そんな人生あまりにもひどすぎる。

彼女はなぜいまだに30代後半になってまでグルーピーをやってるのか?なぜなら毎年過去20年間も沢山の野球選手との恋を楽しんでいながら、彼女にはそれまで誰一人として「俺と一緒にメジャーに行こうよ」と本気で愛してくれた人がいなかったからだ。

彼女はいつグルーピーを始めたのだろう?輝くほど美しかった20代前半。もしかしたらティーンの頃だったのかもしれない。彼女はなぜそんなことを始めたのか…その理由は、彼女がただかっこいい野球選手に近づきたかったから。若い頃はそれがとても楽しかったのだろう。

しかし現実の今の彼女は毎年ワンシーズンだけで使い捨てされるだけの(男にとっての)便利な女。そんなことをもう20年間もやっている女が、本当に「私は野球そのものを愛しているのだからそれで幸せ」などとと言えるだろうか?言えないと思う

この映画の彼女のキャラクターはあくまでも男性から見て「都合のいい理想の女…ちょっとかわいそうだが愛すべきいい女」なのだろう。彼女はホイットマン、スーザン・ソンタグ、ウィリアム・ブレイクの名前を会話に散りばめるインテリ。1970年代の女性解放運動/ウーマンリブの時代を経て、80年代の新しい時代を生きる彼女は、自分の意志で男達と刹那的な恋を楽しむ現代的な女。そして「野球への愛」の名のもとに自分からは何も要求することなく、毎年若い野球選手のお世話係を務めている。彼女は一見イケてる進歩的な女。しかしあまりにも長い時間が流れ過ぎた。一番の問題は、彼女が自分自身を長年粗末に扱ってきたことに気づいていないこと。

そんな女性を男目線で「愛すべき女性」に仕立て上げ、大人のラブストーリーの映画を撮った古臭い監督の価値観に私は頭がくらくらするほど唖然とした。このような女性像を描いた脚本に賞を与えた当時の映画業界にも驚いた。当時は価値観が今とは全く違っていたのだろうと思う。

最後はケビン・コスナーが「ものずき」で親切な男でよかったですね。彼女にもとうとう本命のいい男が現れた。しかしその恋の設定も「かわいそうな女をいい男が救ってくれる話」にすぎない。彼女は自分で自分を救えなかった。彼女の幸せは男次第。なんと古臭い話だろう。

しかし現実には、彼女のような女にケビン・コスナーなんて現れない。

古臭い昔の男の目線のみで男の子供じみた戯れとノスタルジーを描いただけの映画。中身は無い。ヒロインは男に救われる哀れな女。それをロマンティック+ノスタルジックな映画としてリリース。それが1988年の名作と呼ばれる。 …1980年代後半の時代と今の時代との価値観の違いにあまりにもショックを受けたために、肝心の「ユーモラスなマイナーリーグの話」の部分が私の頭にはほとんど響かなかったのは残念。これが名作映画なんて冗談だろうと思う。まぁ「男だけで勝手に懐かしがってくださいね」と思った笑。