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2022年8月2日火曜日

映画『勝手にふるえてろ』(2017):氷を溶かす「好き」のパワー





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『勝手にふるえてろ(2017年)/日/カラー
/117分/監督:大九明子/原作:綿矢りさ』
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随分前にTV Japanで放送されたものを録画していた。やっと見た。


こじらせ女子あるある。わかる。わかるから爆笑。リアルです。かなりリアルで驚いた。すごいぞ。いい映画。わかる人にはわかる主人公ヨシカの生きづらさ。 主演の松岡茉優さんが素晴らしい。大きな拍手。最後に心が温かくなるいい話。…これ、これです。どうやって人は人に出会うのか? うまいね。いい映画。



★ネタバレ注意

それにしてもこのヨシカさんはどうしてこんなにこじらせてしまったのだろう。なぜ彼女は24歳になるまで14歳の頃の思い出の男の子「いち」をひきずったのだろうか。まさか過去10年間、全く他の誰にも惹かれなかったということはないだろう。もしかしたら中学以降の高校や大学生の頃に、人との関係で傷ついたり…なにか辛いことがあったのだろうか。だから13、14歳の頃に好きだった男の子を神格化してしまったのだろうか?

ヨシカは彼とクラスメートだった10年前の中学の頃でさえ「いち」とろくに話をしていない。彼女はその「いち」のことが一方的に好きなだけで、彼とはその後の10年間一度も交流することなく、それなのに24歳になっても未だにその「いち」を強く想い続けている。

これ、彼女にとっての「いち」は実体のある人ではないのですよね。「いち」は彼女が自ら作り上げたイマジナリーボーイフレンド/想像上の理想の人。彼女は現実の「いち」がどういう人なのかを全く知らない。それでもいいと思っているのは彼女が自己完結型だからだろうか。


ヨシカは臆病。異常なくらい傷つくことを怖がっている。だから自分の繭の中に篭ってしまう。そして彼女は心の自給自足型、自己完結型の人。元々内気なのだろうが、一人っ子だというのもその大きな理由。彼女は独りでも自分だけの楽しみを見つけられる人。そして楽しみに没頭している時には寂しさも感じていない。彼女は劣等感に苛まれているようにも見えない。心の自給自足、自己完結でそこそこ人生を楽しめている人なのだろう。

金曜深夜の「タモリ倶楽部」を楽しみにする…普段から金曜の夜にも外出せず一人で過ごしているヨシカ。誰にも理解されなくても大好きな古代生物を愛でるヨシカ。彼女のおひとりさま充実人生のサインは様々なところに散りばめられている。うまい。


彼女は一般的に言えば「変わり者」…しかし彼女は、世間が自分を「変わり者」だと呼ぶことは嫌なのだろうと思う。彼女は世間的にまっとうなイケてる女でいたい。人に「変」だと言われて傷つきたくないから正直に自分をさらけ出せない。それは彼女のプライド。

しかし彼女はそもそも他人にあまり興味がなさそうだ(人の名前も覚えない)。あまり人と深く関わらないから、他人から見れば彼女はどういう人なのかも分かりづらいだろう。おとなしい人。不思議ちゃん。そんな風だから彼女は人の記憶にも残らない。しかし彼女自身も普段はそのことをあまり気にしているようにも見えない。


そんな彼女の「おひとり様人生」に突然インベーダー/侵入者が現れた。同じ会社の同期の「に」。この人がまぁうざい。彼は一方的に彼の「好き」な気持ちを押し付けてくる。それは確かに「好意」ではあるのだけれど、そもそも人との密な関係が苦手なヨシカには、彼はただただ迷惑。そしてその「わけのわからないうざい人」がデートしたいと積極的に迫ってくる。そのうざい人「に」は初デートで醜態をさらす。ロマンも何もない。そして告白される。寒い冬の川釣りデートにも連れて行かれる。彼女はただただ戸惑うばかり。

しかし「に」がヨシカに投げた小石は、彼女の心にさざなみを起こす。少し自信がついたのだろうか。ぼやを出して死を意識したヨシカは、ダメもとであの「いち」への接触を試みる。「いち」を想い始めてから10年後、彼女がやっと動き始める。いつもの彼女からは考えられないほどの勇気と行動力。しかしヨシカのせいいっぱいの試みは、撃沈に終わる。

「いち」は彼女の名前さえ知らなかった。

そのことが彼女を現実に引き戻す。(彼女の自己完結型の生き方のために)世間がヨシカをどう見ているのかを彼女はあらためて実感する(まさかそのことを初めて知ったわけではないだろう)。誰にも見えていない透明な自分。「いち」にも彼女は見えていなかった。ヨシカは孤独のどん底に落ちる。

奈落の底に落ちたヨシカに「に」が温かく微笑みかけてくる。「この人は私を見てくれている。興味を示してくれている。つきあいたいと言ってくれている」。ヨシカは「に」の温かさに癒される。二人は卓球をしたり動物園デートに出かけて楽しそうだ。次第に私にも「に」がかわいく見えてくる。 

それまでの過去10年間、誰にも心を開く事なく、そのために自分の周りに氷のバリアを張ってコチコチに身の回りをガードしていたヨシカ。その氷は氷山くらいに育っていたのかもしれぬ。その氷山が少しずつ溶け始める。拍手。

その後もいろいろとあって、最後には雨降って地固まる。めでたしめでたし。



いい話。二回見たけどいい映画。

私はこのブログで、以前から様々な日本のドラマの感想で、女性に向けて…「好きだ」と言ってきてくれる男性も悪くないぞ…と何度も書いている。 相手を好きになって追いかけるのも楽しいが、はっきりと自分に「好意」を示してくれる人も悪くない。

この映画はそういう話だと思う。

自分からの「好き」はもちろん大切。最初から「100%タイプじゃない」人を受け入れるのは確かに難しい。しかし人は…特に女性は、必ずしも全ての男性に対して「好き」か「嫌い」かの白黒を、出会って一瞬で決定するものでもないだろうとも思う。

女性が出会う人々の中で、すごく好きなタイプの人が上20%ぐらい、絶対にダメなタイプが下20%ぐらいだとしたら、残りの60%ぐらいはグレーエリア。伸びしろのある60%。もし「好きだ」と言ってくれる人が60%の範囲内にいるとしたら、その人と上手くいく可能性はある。人とはそういうもの。

特にこの映画のヨシカのように臆病な女性ならなおさらのこと。もし「好き」だと言ってくれる60%範囲内の人がまっとうな温かい好意を示してくれるのなら、その臆病な女性も相手を知ることでその人のよさが見えてくることもあるだろう。その人を好きになることもあるかもしれない。


この映画はそんな話。 ヨシカにとって最初の頃の「に」はたぶん60%の下の方の人。しかし傷ついたヨシカが彼に心を開いたあたりから「に」がだんだんいい人に見えてくる。演出も演技も脚本も見事。

色々あった後で、最後に「に」が雨の日に訪ねてきてくれた場面…隣人に喧嘩を見られて「に」が玄関に押し入ってくる。その足元の靴を映した映像で、「あ…かっこいいかも」と私も思ってしまった。「に」君いいじゃん…。 そしてその後の二人の会話では、二人とも正直に、特にあの頑ななヨシカがすごく正直に自分をさらけ出している。それでも「に」はヨシカのことを「好き」だと言う。彼女のそのままを受け入れてくれている。いい場面。ほ~んと。よかったよかった。嬉しいわ。ヨシカちゃんの心がやっと溶けた。いい映画。


上手い脚本。テンポも速く流れも自然で、コミカルで時にシリアスで、沢山の情報が描かれていて画面から目が離せない。演出も役者さん達も皆素晴らしい。ヨシカ=松岡茉優さんのあの「こじらせ女の独り相撲」の演技のリアルさ、上手さ、おかしさ、表情の巧みさ。本当にすごい。 そして渡辺大知さんの「に」のあの最初のうざさ。うっぜ~男から…次第にちょっといい男じゃん…と思えてくる変化の巧みさ。 最後に玄関で抱き合うシーンで「に」のヨシカの背中に回した手がすごく綺麗だったのも印象的。な~んだ渡辺大知さんて、背は高いし手足が長くてスーツ姿も素敵だし、実際すごくかっこいい男の子ですよねぇ。あの最初の頃のうざさはなんだったのだろう…不思議だ。

詩的な映像の場面がいくつかあった。会社の休憩室の暗闇で眠る女の子達のスマホがひとつひとつ明るくなるのが綺麗だった。

面白かった。ヨシカちゃんが現実の恋に一歩踏み出した。よかった。ハッピーエンド。前向きであたたかい。いい話。