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2017年8月20日日曜日

映画『吉原炎上/Tokyo Bordello 』(1987):おっぱいに惑わされるべからず・女性と仕事とは



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『吉原炎上(1987年)/日/カラー
133分/監督:五社英雄』
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初めて見た。やっと見ることが出来た。リリースは1987年。30年前。

大変素晴らしい映画でした。

美しいだけの映画ではなく、また想像したようなエロばかりの映画でもなかった。確かにおっぱいも沢山出てくるしショッキングなシーンもある。ネット上を検索すれば女優さん達の脱ぎっぷりを語るばかりの感想も多く出てくる。

しかしこの映画の本質は、女性が仕事のプロとして生きることプロとして、女としてのプライドの話なのだろうと思った。遊郭の女性達が(世間からは蔑まされる職業に生きながらも)いかに仕事のプロとして誇り高く、プロとしてプライドを持って強く生きていくのか…それぞれの人物達のそれぞれの結末が描かれる。人目を引くけばけばしさや映像の華やかさの後ろで、実は女性と仕事の関係を描いた映画だと受け取った。

いかにも扇情的なテーマなのにもかかわらず、これほど美しく、また心を揺さぶられる映画だったとは想像していなかった。かなり好きな映画だ。

大変いい映画だったのでまた長々長々と文を書く。


★ネタバレ注意

主役の上田久乃→若汐→紫太夫(名取裕子)5年間の成長を軸に話は進む。舞台は遊郭「中梅楼」。彼女と先輩花魁3人でストーリーを4つのパートに分け、吉原の女性達の様々な生き方を描く。またもう一人、運に翻弄されながらも正直で強く逞しい遊女・菊川(かたせ梨乃)が全編を通して登場。花魁として大成した紫太夫とは別の道を進む影の存在として描かれる。

どんな映画も観客の受け取り方次第。この映画を主人公の若汐と古島の若さんの実らなかった悲しい恋物語と見る人もいるだろう。女優さん達のおっぱいだけが売り物の派手なエンタメだと見る人もきっといる。たぶんどちらも間違ってはいない。しかし私は(前述のように)この映画は女性の仕事に対するプロ意識とプロとしての自負、プライドについての映画なのだろうと思う。5人の女性達は仕事に対してそれぞれ違う向き合い方をする。そして最後に彼女達が生きて輝いた「吉原」が燃え落ちで全てが終わる。

「吉原」の映画を見て「仕事の話」と考えるなど色気もそっけもないけれど、こういう見方もあると思うので書き留めておく。それぞれの人物達のエピソードが興味深いのでまとめておこう。


登場人物達
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4人それぞれの生き方
 
●九重/二宮さよ子

仕事を完璧にこなすプロ中のプロ。中梅楼の一番人気。しかしもう若くない。そのことも自覚している。彼女にとって仕事は仕事。自己の価値と、仕事で得たプライドを分けて考えられる人。完璧に仕事をこなしトップに上り詰めても決してそのプライドに溺れることはない。情はあっても情に溺れることを己に許さない。年季が明ければ未練も残さず潔く郭を後にする。
 
●吉里/藤真利子

美しく才能で御職に上り詰めたものの気まぐれプロとしての強い自覚があるわけでもなかったのかもしれない。とある客に本気で惚れてしまう。結局捨てられる。彼女は仕事で芽生えた客への情を(プロとして)自己から切り離す事ができなかった。客に捨てられ自暴自棄になって自害。
 
●小花/西川峰子

プロとしてのプライドのみで生きてきた。苦労した暗い生い立ちを隠して客のみならず郭の同僚にさえも過去を偽る。遊郭の女性とは客にとっての理想…だから嘘で自らを脚色するのもプロの技。努力して努力して御職にまでのし上がった彼女は仕事こそが命。仕事は彼女自身。己の全てを仕事に捧げてきた。だから彼女は九重のように郭の外の世界で生きる事が出来ない。仕事を辞めて吉原で築き上げた地位を失えば彼女自身が無くなってしまう。そのため病んでも仕事を続けたがり、後からきた若い娘に御職の地位を奪われれば狂ったようにその地位にしがみつこうとする。仕事が出来なくなったら彼女は死ぬしか道がなかったのだろう。
 
●菊川/かたせ梨乃

紫太夫の元同僚。正直者。お人好し。しかし正直過ぎてプロとして上手い嘘をつくことができない。不器用。成績が好ましくないので中梅楼から別の遊郭に左遷。一旦はそこで客に身請けされ幸せになるかと思われたが上手くいかず、最後は吉原で最下層の店が並ぶ羅生門河岸の長屋女郎に身を落とす。
 
それでも彼女は負けていない。彼女にとって仕事は生きる手段。彼女は仕事で自己実現をしようなどとは微塵も思っていない。彼女はいつか自分の夢を実現するために、仕事を仕事と割り切って日々働く。仕事は金のため…仕事は生きるため…それがよくわかっている人。潔いくらい仕事と自己を切り離しているので、どこに行っても生きていける逞しい女性。様々な場所を生き抜いてきたからこそ弱者には優しい。主人公の紫太夫(名取)とは正反対の場所にいながらも印象に残る女性。
 
 
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惑わす男

●古島信輔/若さん/根津甚八
(若汐が惚れる相手。この複雑な人物が若汐のプロ意識に火をつける)

古島財閥の若当主。男前。一見優しい最高の客なのだけれどこの男が実は大変な食わせ者本人にその自覚がないから大問題。若汐に本気で惚れ込んで何度も一夜を共にするが、彼女を抱くことは一度も無い。「辛い仕事をしている(心は)純粋な美しい可哀想な遊女」に本気で恋をして「私がこの子に一晩の休息を買ってあげよう」などと言っている。遊女が可哀想だから自分のためには仕事をさせない…「彼女を愛しているから抱かない」…この男はかなりこじらせてますね。そして若汐の裸を美術品のように鑑賞するだけ(古島に惚れている若汐には大変辛い)。
 
…この男は「可哀想な女」に優しくする自分が好きなだけなのだろうか。しかし本人は本気で女を愛しているつもりなのだから困りもの。遊郭で遊女を相手に純愛を夢見る自分勝手なロマンチスト。自分の理想の女を目の前の遊女に投影して妄想しているだけ。若汐は一人の女として古島に惹かれ…だからこそ彼と肌を重ねたいし、プロとしても彼に最高の姿を見せたいのに、彼はそれを受け入れようとはしない。後に若汐が紫太夫となり、仕事のプロとしての意地を見せれば「君はいつ心の底から娼婦になってしまったのか」と言って嘆く。
 
この男には若汐の仕事に対する努力や誇りが理解できない。彼女の心を思いやることもない。紫太夫もそれがわかったから、彼からの身請けを断ったのだろう。
 
その後古島は別の若く可憐な「可哀想な遊女」に惚れこんでデレデレしている(微笑ましい)。女性の側が彼を素直に受け入れるのならそれはそれでいいのだろう。しかしこういう人物は難しいですね。
 
 
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主人公
 
●上田久乃→若汐→紫太夫/名取裕子

名取さんが素晴らしい。才能と幸運と努力で御職にのし上がる主人公。19歳で売られてきた娘が強い意志を持ったプロに変わっていく様子が見事です。最初は表情も硬い。その後古島に遊郭で再会した時のいかにも嬉しそうな顔。古島に愛して欲しいとすがる頃には身をしなやかにくねらせる妖艶な女に変わっている。古島に「私は娼婦だ」と怒りをあらわにする時の凄み。女優さんの力技です。表情の変化にはっとさせられる。
 
名取さんはこの映画の頃30歳だったそうだ。女性としても最高に美しい年齢でこの花魁の役をなさったことはこの映画にとっても運がよかったのだろうと思う。五社監督の女性は皆綺麗だけれど、この映画の名取さんの美しさは群を抜いている。「女性のプライドの映画」だと書いてきたけれど、まずこの映画は名取さんの女優としての巧さと美しさを見るためにあると言ってもいいと思う。桜が満開の春の日、大勢の人々を従えて自然の光の中をゆっくりと進む彼女の花魁道中は溜息もの。芸術です。
 
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て上田久乃→若汐→紫太夫はどうなった。

この主人公は最初から「特別な女」として描かれる。まず先輩花魁の九重に気に入られる。九重は長年の経験から久乃が将来花魁として大成することを見抜く。高みに上り詰めたプロだからこそ、若い娘の才能を見抜いた。

時は流れ、若汐は古島のような大物客に何度も指名されるようになる。大金が動く。中梅楼も潤う。彼女の地位も上がる。彼女はその美しさと幸運で一度も落ちることなく階段を上っていく。若汐は古島に恋をする。しかしそこで古島との奇妙な関係に戸惑う。おあずけを食わされて彼女の想いはつのるばかり。

彼女のプロとしてのプライドが古島への恋心を上回るのは、彼女が紫太夫になってから。中梅楼のトップ=吉原ナンバーワンの御職になり、それにともなって彼女の中にもスターの自負が芽生える。「ここで大きな花を咲かせたい」と訴える彼女を見て古島が失望を口にする。それに対し彼女は古島に言い放つ「私は娼婦ですよ。女郎ですよ」。ここで古島と彼女は一旦別れる。

古島は最後に紫太夫を身請けしようとするが、彼女はお金だけを受け取って身請けを断る。彼女を一度も抱かなかった古島に、花魁道中で自分の最高の姿を見せたいのだと言う。プロのプライド。身請けを断ったのもわからなくはない。目の前の現実の女性を見ようとせず、頭の中で勝手に作り上げた理想/空想の女にバーチャルな恋をする男と一緒になっても女性が幸せになれるわけがない。

それなのに紫太夫は古島にまだ未練があった。花魁道中を成功させた後、身請けを断ったはずの古島を求めて羅生門河岸の長屋女郎を尋ねる。そこで菊川にたしなめられる…男を捨てて仕事をとったのだからけじめをつけろ、仕事のプロとして私情を挟むな、棲み分けのルールを守れと言う。菊川には菊川の…プロのプライドがある。どんな仕事でも努力と幸運だけで上手く回っていくばかりとは限らない。努力をしても結果が出ないこともある。それでも誇り高く日々仕事と向き合っている人々もいる。

その後紫太夫は、前妻を亡くし出身地の岡山に帰って落ち着こうとプロポーズしてくれた年上の真面目な男・坪坂義一(小林稔侍)の申し出を受ける。坪坂は年配で古島のようにセクシーな色男ではない。しかし彼は奥さんを大切にしてくれる穏やかな夫になるだろう。結局彼女は、自分の全てを丸ごと受け入れてくれる大人の男と落ち着く事を決めたんですね。

そして吉原炎上。

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この映画が作られた1987年と言えば、女性の社会進出が積極的に謳われていた頃。前年1986年には男女雇用機会均等法が施行された。

女性が社会に出て自分の意志でプライドを持って仕事をするというのはどういうことなのか? 実は五社監督が描きたかった主題とはそういうところにあるのではないかと思う。

それにしても1987年当時といえば、現実にはまだまだ「腰掛け」や「玉の輿」などという言葉が普通の会話にも出ていた時代。紫太夫の最後の選択が、収入の安定した地味な坪坂との結婚だったというのもまた興味深い。

主人公が企業に勤めて、身を粉にして働き、速い速度で昇進して責任ある仕事を任され大金を稼ぎ出し、周りからも賞賛され、その頂点で富豪と結婚して引退。その直後に会社のビルが火事で燃えて無くなった…というような話とも受け取れる。

とにかく色んな意味で見ごたえのある映画でした。美しさだけでも見る価値がある。いやウダウダと内容に関する考察を小難しく書いてきたけれど、この映画の一番の見所は、女性の美しさと映像の華やかさなのだろうとも思います。映画の魔法。本当に豪華。女優さん達も、彼女達の裸も衣装も、遊郭の内装も、町の様子も全てが美しい。映像を見るだけでもワクワクする。

そして女優さん達の本気。全てを投げ出して皆さん魂の演技をなさっています。人物達の人生がたとえ哀しい結末で終わっても、役を演じる女優さん達はそれぞれが輝いている。彼女達の力技に心を動かされます。見事です。

「吉原」の町はセットを組んだものだろうけれど、最後は実際に燃やしたのだろうか。ものすごい迫力。大きな建物が実際にバリバリと音を立てて燃える様子はまさに映画の魔法。主人公の何ともいえない表情と共に映像に圧倒される

遊郭の話なのに実際はあまり色っぽい映画ではないと思う。
痛い場面は一つだけ。吉里が日本剃刀を振り回す場面は痛そうで辛い。


最後に日本ではもうこんな映画は二度と作れないだろうと思います。昭和の時代は凄かった。監督も制作のスタッフも皆大人。女優さん達は若くても皆大人。哀しみと痛みのわかる大人が、大人の観客の心に訴える映画を真剣に作ろうとしていた時代。豪華なエンタメとしても最高。圧倒されました。大きな拍手です。