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2012年7月2日月曜日

NHK大河ドラマ「平清盛」第26回「平治の乱」



うーん…。たぶん次回からの戦にフルに時間をとるための、タメの回だったんだと思うけど、多少間延びした印象。

主役の清盛が、今もって魅力的でないのはかなり苦しい。40歳を過ぎた大の大人が自分の息子より馬鹿っぽく見えたり、緊急事態なのにしんみり思い出話をしたり、お友達が死んだと言ってメソメソ泣いたり…どうしたものかな。ちょっと前に貫禄が出てきたと思ったのに、また子供に逆戻り?そんな泣いてる暇があったら、さっさと作戦でも考えれば?泣いてる暇なんてないですよ。信西の首を見て怒りに体を震わせ、すぐに戦に向けて気持ちを引き締めるほうがずーっと本気っぽいのに。

脚本に主役の清盛を魅力的に描く意思が一切見えないのは困りもの。息子の方が10倍ぐらい頭がいい。彼をあれだけ切れ者に設定して主役の清盛をこれからどうするつもりなんだろう。あんなに感情的な、知恵も見えないお人好しに描いて、この後もそのまんまなんだろうか。あの台詞にあの人物設定じゃ、どんなに経験を積んだベテランの俳優さんでも清盛を魅力的に演じるのは難しいだろうと思う。「オレはタイラノキヨモリぞ。」なんていう台詞も何の意味があるのだろう。こけおどしだろうか。

確かに松山さんが若すぎて役が大きすぎるのではないかという心配もある…が、ちょっとまって。そもそも映画やドラマ作りって、俳優1人の力だけにたよって出来上がるものではないと思う。ドラマの良し悪しは監督や演出、脚本など、画面に出てこない制作の方々の力がすごく大きいのでは? もし監督に描きたい清盛像がはっきりとあるのなら、(極論を言えば)どんなに未経験な俳優さんを連れてきてもそれなりのものになるのではないか。衣装もメイクもそう。台詞もそう。もし俳優さんに威厳が足りなければ、まず演技指導をして声の出し方を指導し、カメラワークで大きく見せる…など、俳優さんの力以外のところで何とかすることももう少し考えられるのでは。そんな努力をしているのだろうか。


1960~70年代のイタリアにヴィスコンティという有名な映画監督がいたのだけど、彼の話をしたい。この監督さん、ド素人の男の子を顔が綺麗だというだけの理由でつれてきて、自分の監督する大作映画の準主役に抜擢したんです。現場では、このド素人の男の子に文字通り手取り足取り、指の上げ下げから首の角度にいたるまで、逐一演技指導をしたのだそう。その映画の名は『地獄に堕ちた勇者ども(1969年)』。顔の綺麗な素人の男の子の名はヘルムート・バーガー。映画も評判だったし、その男の子は、その後ヴィスコンティと組んで世界的なスターになった。

こんな例があるからこそ、ドラマや映画制作は面白いのだと思う。。知性を感じられない台詞とともに、いったい現場ではどういう風に清盛の役作りをやっているのだろうと思う。清盛を魅力的に見せるかどうかも、作り手の力次第ではないのだろうか。

俳優さん達は本当に頑張ってると思う。信西の阿部さん、おつかれさまでした。これで終わりなのは残念。「なんでもよーい」だけではなくて、もう少し踏み込んで知りたかった。義朝の玉木さんなんて、普段は細身の優男なのに、よくぞここまで漢な印象を作り上げたものだと惚れ惚れする。怒鳴りつける時の吼えるような声が素晴らしい。この人ももうすぐ退場ですね。この俳優さんには、またこういう時代劇の漢な役をやってもらいたい。歳を重ねていけばもっと威厳も出てくるはず。重盛の窪田さんも、若いのに危機感を上手く演じている。彼は顔がどこか緒形拳さんに似てますね。義平の波岡さんもヤンキーがそのまま武将になったような感じがいい。こんな触ると切れるような激しいタイプの武将はいっぱいいたと思う。深キョンにも威厳が出てきた。

さあ来週は男祭りか…。


追記;清盛と信西の最初の出会いが、穴の中の信西を清盛が助け出す場面だったと思うけど、これって今回の信西の最後の場面でオチをつけるためのもの? げげっ…。