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2022年7月28日木曜日

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第28回「名刀の主」7月24日放送



梶原景時の失脚。三浦義村のたくらみ。

今回は難しかった。それにしても話の展開が速いですね。頼朝が1199年1月に亡くなってから、4月に13人の合議制が決まり、その翌年1200年の1月には梶原景時が失脚。討ち取られて梶原一族は滅亡。速い速い。


梶原景時の変
正治元年10月25日から翌正治2年1月20日(1199年11月15日 - 1200年2月6日)にかけて鎌倉幕府内部で起こった政争。今回はそのドラマ化。

『吾妻鏡』に記録されている説に、三谷さんが脚色したものですが、最後に梶原景時の失脚は三浦義村の陰謀であった…ということかな?

今回はWikipediaに頼って実際に何があったのかを書き、そこに脚色の内容を加えてみようと思う。


梶原景時の変
正治元年(1199年)秋 
鎌倉での13人による合議制成立の半年後、将軍御所の侍所で、結城朝光が頼朝の時代を懐かしみ「忠臣二君に仕えずというが、あの時出家すべきだった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」と述べた。


結城朝光

Drama -----------------------------------------------------------------------
 結城朝光(高橋侃)は弓の練習中に、仁田忠常 (高岸 宏行)や善児(梶原善)の前で愚痴をこぼす=それが現鎌倉殿・源頼家(金子大地)への批判と受け止められる

 その頼家への批判の言葉は善児から梶原景時(中村獅童)に伝えられ、結城朝光は謹慎の身となる。

 結城朝光は実衣/阿波局(宮澤エマ)の琵琶のレッスンの先生。以前から実衣と親しくしていた結城は、謹慎のことを実衣に伝え助けを求める。←この時の実衣の表情が乙女でかわいい。表情豊か。

 頼家の女性問題による…鎌倉殿への御家人達の不信感を正すため、梶原がみせしめに結城を死罪と決める。大江広元(栗原英雄)がそれに異を唱える。

 実衣が義時(小栗旬)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、畠山重忠(中川大志)に助けを求める。
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実衣/阿波局

翌々日、御所に勤める女官である阿波局(実衣)が朝光に「あなたの発言が謀反の証拠であるとして梶原景時が将軍に讒言し、あなたは殺されることになっている」と告げた。

驚いた朝光は三浦義村に相談し、和田義盛ら他の御家人たちに呼びかけて鶴岡八幡宮に集まると、景時に恨みを抱いていた公事奉行人の中原仲業に糾弾状の作成を依頼した。

10月28日、御家人66名による景時糾弾の連判状が一夜のうちに作成され、将軍側近官僚大江広元に提出された。景時を惜しむ広元は躊躇して連判状をしばらく留めていたが、和田義盛に強く迫られて将軍頼家に言上した。



Drama -----------------------------------------------------------------------
 実衣から相談を受けて、義村、和田、畠山が発起人となり梶原弾劾の署名を集め始める。以前から梶原に不満を持ち、その署名に名前を連ねた御家人達は66人となった。

 侍所に集る御家人達。土肥実平 (阿南 健治)が「内輪もめはよくない」と止めに入り、皆が騒ぎ始めたところで梶原がその場に現れる。書状は大江に預けられる。大江が連判状を留めていたが、和田が怒る。
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11月12日、将軍頼家は連判状を景時に見せて弁明を求めたが、景時は何の抗弁もせず、一族を引き連れて所領の相模国一宮(神奈川県寒川町)に下向した、

謹慎によって御家人たちの支持を得たので景時は12月9日に一端鎌倉へ戻ったが、頼家は景時を庇うことができず、18日、景時は鎌倉追放を申し渡され、和田義盛、三浦義村が景時追放の奉行となって鎌倉の邸は取り壊された。29日、結城朝光の兄小山朝政が景時に代わって播磨国守護となり、同じく景時の所有であった美作国の守護は和田義盛に与えられた。



Drama -----------------------------------------------------------------------
 頼家に提示された二つの書状。
 ① 梶原景時による、結城の謀反の疑い。…謀反の疑いは晴れる
 ② 御家人66名による梶原景時糾弾の連判状
結果梶原景時は役目を解かれ謹慎。

 ここまでの流れが、実は三浦義村の計画…「結城が実衣に相談すること」が義村のアイデアだったという設定。梶原排斥のために義村が結城にその指示を出したことになっている。「全てうまくいった。梶原にいられると物事が進まない」
 これ。ストーリー的にはここでびっくりの種明かしなのだけれど、しかし計画としては無理がある。実衣が義時らに相談することで66人の署名が集まった流れなのだが、それは「結果」であって始めからそれを謀ることは難しいのでは。だからと言って4,5人の署名では梶原の失脚につながるのかも疑問。
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翌正治2年(1200年)正月20日、景時は一族とともに京都へ上る道中で東海道の駿河国清見関(静岡市清水区)近くで偶然居合わせた吉川氏ら在地武士たち、相模国の飯田家義らに発見されて襲撃を受け、狐崎[注釈 1]において合戦となる。子の三郎景茂(年34)・六郎景国・七郎景宗・八郎景則・九郎景連が討たれ、景時と嫡子景季(年39)、次男景高(年36)は山へ引いて戦ったのち討ち死にし[注釈 2]、その首は隠されていたが翌日探し出され、一族33名の首が路上に懸けられた。頼朝の死から1年後のことであった。


Drama -----------------------------------------------------------------------
 後鳥羽上皇(尾上松也)が梶原を京に呼び寄せようと思いつく。梶原もその気になる。それを義時が止める。

 そのことが頼家に伝わり、梶原は奥州に流罪となる。

 翌正治2年(1200年)1月 梶原が頼家の嫡男・一幡を人質に比企家に立て篭もる。一幡を連れて上洛したあとで一幡を鎌倉に送り返すと言う。止める義時に、梶原は彼の上洛の意向をなぜ頼家にチクッたのかと聞く。義時「朝廷との争いの火種になるから」

 梶原は一幡を比企に返し、これから流罪先に出発すると言う。善児を義時に託す。梶原が義時へ「源氏は飾りにすぎぬと。忘れておらぬな。己を貫きとおせ」

 義時、頼時(坂口 健太郎)へ京へ向かうであろう梶原を追って討ち取るよう指示。「梶原殿は、武士らしく戦で死ぬおつもりだ。」

 結局景時を討ち取るのですね。助けるつもりなんか最初からないのだな。
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その他

頼家は今も13人の合議制が気に入らない。自分のチーム6人衆には鎌倉の風紀取締りを言いつける。

頼朝の次女・三幡が死去。享年14。正治元年6月30日(1199年7月24日)。その乳母夫・宿老の一人であった中原親能(川島潤哉)が出家し鎌倉を去る。

この頃、つつじがご懐妊。

頼家のわがままが止まらない。父・頼朝の忠臣・安達盛長(野添義弘)の息子・安達景盛(新名 基浩)の妻・ゆう(大部恵理子)と浮気。頼家はまだ17歳。…頼家が安達盛長・安達景盛にゆうを譲るようにと言う。安達盛長が頼家を叱る。反発する頼家。梶原の介入。政子の介入。義時も頼家を叱る。 ←あの穏やかな安達さんの怒鳴り声がす~ごくかっこよかった 💕


今回13人から抜けた人…中原親能、梶原景時

1199年夏
1200年11月