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2016年1月11日月曜日
David Bowie氏に関する個人的な思い出
自分のために記録しておく。
涙が出るわけでもない。今に至るまで彼のアルバムをずっと聴き続けていたわけでもない。最後に買ったアルバムは1993年の『Black Tie White Noise』。あのアルバムの後、彼がどんな活動をしていたのか、どんな音楽を書いていたのかも全く知らない。噂をどこかで聞くだけ。ロンドンにいた時もメディアで時々見かけただけ。もうファンではなかったのだろうと思う。
それでもブログにわざわざ彼の事を書かずにはいられないのは、若い頃の一時期にドップリとBowie氏三昧だったことがあるから。
1983年に彼のコンサートを見てからタガが外れた。いてもたってもいられなくなって初期のアルバムから新作まで全部買い揃え毎日毎日毎日彼の曲を聴き続けた。真面目に学校に行って凡人達と机を並べるのが馬鹿馬鹿しいと思った。ああなんて世の中はつまらないんだろう。もっと刺激が欲しい。もっと面白い事はどこにあるんだろう…。馬鹿な中二病を18歳でこじらせた。重症。
83年当時、アルバム『Let’s Dance』の大ヒットと、大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』の話題でBowie氏は日本でも時の人だった。メディアには彼の情報が日々溢れていた。雑誌を買い漁りインタビューをくまなく読み、過去の語録を読み、レコードショップをめぐり、ブート屋をめぐり、洋書の写真集を買って溜息をつき、ラジオでのインタビューを聞いてドキドキする。
アルバム『Diamond Dogs』がジョージ・オーウェルの『1984年』に影響されたものだと聞けば本を読み、ジャック・ケルアックの『路上』に影響されたと言えばまた買って読み、『戦メリ』の原作がローレンス・ヴァン・デル・ポストの『The Seed and the Sower』だと聞けばまた読み、彼が三島由紀夫氏の本を褒めればまた何か読んで理解できずに頭をひねる…(どの本を読んだのか記憶はない)。
友人の持っていた76年のNYライブのブート盤をテープにコピーし、イタリア語の「Space Oddity」の入ったレア盤を買う。ライブ盤『David Live』の彼のかすれ声にドキドキし、『Hunky Dory』の中の歌を口ずさむ。友人とドイツ映画『クリスチーネ・F』を見に行く。「Station to Station」を真似て手をうねうねさせる。メイクを真似して遊ぶ。英語の勉強をする。彼の訛りを真似する。彼の記事からリンゼイ・ケンプ氏とケイト・ブッシュさんの繋がりを知る。名画座で『地球に落ちてきた男』をやるからと出かけていく。ライブ映画『ZIGGY STARDUST』のフィルム・コンサートを友人とどこかのホールに見に行ったこともあった。
もちろん全てのアルバムを、歌詞カードを顔にくっつけるように見ながら聴いて内容を理解しようと日々務めた。ほどんどわからなかった。もっともっと他にもあっただろうと思う。そんなことばかりをやって1年ほど過ごした。…それがそれまで比較的優等生だった私の人生で最初のささやかな反抗だった。大学の単位を取り返しのつかないほど落とした。
友人はBowie氏に恋をしていた。私は全くそういう興味を持たなかった。ルックスは綺麗だと憧れたがそれほど好きなわけではない。年も離れすぎている。私にとってのBowie氏は曖昧ながらも崇拝する人生の師匠だった。彼の作品、彼の話す言葉から世の「文化」を学ぼうとしていた。美大で先生が教えてくれる文化よりもずっと人生のためになると思った。実際にそうだった。
今思えばあの時期の私の馬鹿な振る舞いは、十代最後に遅れて発症した中二病的反抗期からくるものだった。Bowie氏はたまたまそのきっかけだったに過ぎない。実際に1年後にはマドンナが見せてくれる世界の方が面白くなっていた。次第にBowie氏以外の「文化」にも同じようにのめりこんでいった。そしていつの間にかBowie氏のことも忘れてしまった…。
今でも、あの十代最後に感じたそわそわと焦るような気持ちはよく覚えている。何か面白いことがないか、何か変なことがないか…とあの頃から今に至るまでずっと何かを探し求め続けている。面白いものを見つけることよりも、面白いものを探す過程のほうが楽しいことも後に知った。人生は「文化」を愛し、学び、楽しむためにある。そのことを知る最初のきっかけを作ってくれたのはBowie氏の83年のコンサートだった。彼に出会ったから今の私がある。
David Bowie 1947-2016
こんな文字列を見る日が来るなんて想像したこともなかった。
David Bowieさん感謝しています。
ご冥福をお祈りいたします。